遊びの権利の現状と課題について
―ジェネラル・コメント17号の遊びの阻害要因から考える―
内山 悠(IPA日本支部)
遊びは子どもの健全な成長と発達に欠かせない要素です。国連「子どもの権利条約」第31条は、休息・余暇、遊び、文化的・芸術的活動に参加する権利を保障しています。
しかし現実には、こうした権利はさまざまな要因により十分に保障されていません。今回は、2013年に子どもの権利委員会が発表したジェネラル・コメント第17号(以下GC17)を手がかりに、遊びの権利の現状と課題を明らかにし、今後の取り組みを考えたいと思います。
ジェネラル・コメント第17号の意義
2013年に発表されたこの文書は、遊びの重要性、障壁の排除、政策の実施を強調しています。遊びを促進するための具体的なガイドラインも提供されており、政府や地域社会に対して包括的なアプローチを推奨しています。以下、パラグラフ33〜47に示された課題について整理します。
1. 遊び・レクリエーションの重要性に関する意識の欠如(パラ33)
大人社会の中で、遊びが「学びに劣るもの」「時間の浪費」と見なされる傾向が根強く、子どもの遊びを支える文化が形成されていません。
2. 危険な環境・安全性への懸念(パラ34-36・39)
治安や事故への不安、保護者の過剰な心配から、子どもが自由に遊ぶことが難しい状況があります。一方で、過剰なリスク回避は、子どもの主体的な学びや挑戦の機会を奪ってしまいます。
3. 公共空間の利用制限(パラ37・38)・自然へのアクセスの欠如(パラ40)
都市化や再開発により、子どもが安心して使える空間が減少しています。自然環境にふれる機会も減り、自由な屋外遊びが困難になっています。
4. 成績・学業への圧力(パラ41)と過剰なスケジュール管理(パラ42)
教育への期待が高まり、子どもは塾や習い事に追われています。自発的な遊びの時間は後回しにされ、自由な時間が失われつつあります。
5. 政策や開発における軽視(パラ43)と文化・芸術活動への投資不足(パラ44)
第31条に関連する政策は後回しにされがちで、文化的機会へのアクセスも不十分です。遊びや表現活動が「贅沢」扱いされることもあります。
6. 電子メディアの役割の増大(パラ45・46)
デジタル機器の利用は新しい遊びの形を生み出す一方で、身体的な遊びや対面の関わりが減少しつつあります。
7. 遊びの商業化(パラ47)
遊びがマーケティングや利益の対象となり、「自由で自発的な遊び」が失われていく危険性も指摘されています。
GC17では、遊びを「子ども自身が自らの発想と意志で取り組む活動」と定義しています。つまり、どのように遊びたいか、どんな場が必要かを語るのは子ども自身であり、その声を施策や場づくりに反映することが欠かせません。
子どもが遊び場づくりに関わったり、学校や地域の活動に意見を届けたりすることは、単なる「意見表明」ではなく、権利の実践であり、社会参加の第一歩です。
· 政策改善: 遊びを子どもの権利として明確に位置づけるための法律やガイドラインを整備する。
· 地域協力: コミュニティが積極的に協力し、遊び場を設置し、文化的バリアを解消する活動を行う。
· 遊びの価値啓発: 親や教育者に対する遊びの重要性についての啓発キャンペーンを行う。
· 遊び場の設置と保護: 政府や民間団体が協力して、安全でアクセス可能な遊び場を提供する。
· データに基づいた政策導入: 遊びの重要性を示す実証研究を活用し、効果的な対策を講じる。
· 国際協力: 国際的な団体が共に働き、遊びの権利をグローバルに促進する。
· 子ども参加: ワークショップやまちづくり会議などの機会を通して子どもの声を聞く。
国際遊びの日(6/11)の制定経緯
国際遊びの日は、すべての子どもが自由に遊べる権利を促進する目的で制定されました。例えばベトナムでは地域レベルで遊び場の再生や文化的活動の促進を通じて、子どもの権利向上に取り組んでいます。これらの活動は他の新興国にも影響を与えています。また、インドやフィリピンでも同様の取り組みが始まり、地域社会全体で子どもたちの遊びの機会を増やす努力が行われています。
遊びの権利を実現するためには、さらなる行動が必要です。地域社会、政府、国際団体が協力し、すべての子どもに自由な遊びの未来を提供する努力が求められます。データに基づいた政策の導入、実証研究の強化、国際的な協力の推進が、遊びの権利を保障するための鍵となります。
皆さんと考えたいこと
2013年のGC17の発表から12年が経ちました。この間に、コロナ禍があり、さまざまな災害(気候変動が主な要因と考えられるものも増えました)や戦争・紛争が起こり、社会の分断がますます深まっています。改めて、この時代に31条を「推す」ことがどのような意味や価値を持つのか、議論できればと思います。
参考リンク
l ARC 平野裕二の子どもの権利・国際情報サイト 休息・遊び等に対する子どもの権利(31条)前編 https://w.atwiki.jp/childrights/pages/233.html
l IPA世界専門家会議報告書(英語版です。日本語版については内山 [email protected] にお問い合わせください。) http://ipaworld.org/ipa-working-paper-on-childs-right-to-play/
l IPA(子どもの遊ぶ権利のための国際協会)日本支部 https://www.ipajapan.org/
第6回子どもの権利条約31条のひろば2025③
2025年7月31日(木)18:00~20:00 オンライン
(北島)
こんばんは、北島です。今、内山さんの話を聞きながら、この間の運動とか、僕自身が児童館という、ある意味子どもの権利、遊ぶ権利を保障する専門の施設の職員として出発しているので、つくづく2つの事を思いました。1つは「子どもの声を聞く」っていうのは、「誰が、子どもの何の声を聞くのか」っていう事です。例えば「この子が塾に行きたいって言ってるから行かせています」っていう、それは子どもの声としてたくさん聞くんですね。でも、「本当にその子は塾に行きたいのか」とか、やっぱりその子どもが言ったことの奥に実はもう1つ子どもの声(親が喜ぶとか不安感とか)はあるっていうのが現場の実感です。
すごく表層的な言葉だなってちょっと思いながらこの家庭庁の取り組みを見ているので、私たちは、子どものどんな声を聞いて、その「聞く」っていうことが次の行動にどう繋がるかって、やっぱりそこの視点なんだなって思ったのと、もう1つは「自由に遊ぶ」っていうことです。
自由に遊ぶ!確かに様々な外的な要因、例えば児童公園が増えているとか、児童館ができているとか、各市町村で権利条例が生まれているとか、こども家庭庁ができているとか、それからIPAもそうだし、アフタフバーバンもそうだし、子ども劇場、文化団体、NPO、子育て支援、遊び場、プレイパーク、冒険遊び場、もういろんなところが増えているわけですね。だけど、その中で一体「自由に遊ぶ」っていう捉え方がどうなっているのかを見る必要があるという事です。
児童公園に行った時に、「このブランコを立って漕いではいけません」「このブランコをぐるぐる回してはいけません」「このブランコから靴を投げたりしてはいけません」みたいな、遊び方の禁止事項が書かれた時に、「あ、ついに時間、空間、仲間だけを奪うんじゃなくて、遊びの心まで奪うのか」っていう感覚を持っ他のです。児童館の現場でも本当に自由な遊びを保証してる施設なのか?みたいな葛藤が、内山さんの話を聞きながら「うわーっ」と浮かんでしまいましたけども、僕自身は、そういう中で、児童館の職員として、あるいはアフタフバーバンというグループの活動を通して、やっぱり子どもの遊びが、31条こそがキーワードだということで、その学びと実践・創造をしていこうという一人として、今ここにいるというふうに思っています。
今日は、「遊びは主食です」っていうふうに、31条の中でずっと言ってきたことについてお話をしようと思うんですが、最初に、「権利」っていうことに少し触れます。権利条約ができた年、僕は児童館の職員でしたので、批准するまで5年近くあるわけですけど、当時ずっと児童館の職員でしたので、権利条約の条文はもう「待ってました!」っていうか、「僕らの仕事を後押ししてくれる条文だ!」みたいなことをすごく勇気をもらった記憶があって、で、大田堯先生の『(子どもの)権利条約を読み解く』っていうその本から始まって、勉強会を児童館のメンバーですごくしたんですね。
条約のカルタが生まれたり、条約のラップが生まれたり、いろんな取り組みを当時児童館はかなり先進的に取り組んではいたと思うんですけども、大田先生が、当たり前のこと、正当なことで、生まれながらにして持っていて尊重される。この言葉を頼りに、本当にそうだなと思いながらも、子どもの遊びの現場ではこの当たり前が毎日ぶつかるわけです。
鬼ごっこでの鬼と、捕まりたい鬼と捕まりたくない人と、当たり前ですけど、これはぶつかるわけですね。そこで都合のいいルールをお互いが言い合ったりしながら、「どうしていくんだ」、時には上の子がちょっと殴ったりね、脅して、「言うこと聞けよ」みたいなことがあったり。
つまり、毎日遊びの現場でみんなが楽しく鬼ごっこをするためにどうしたらいいかが、ぱっとすぐ行かない。そこに必ず対立、葛藤があって、いちいち「どうする」「じゃあ、鬼誰がやんの」「キタさんやってよ」みたいなところから、もうそれが日常の中に。だけど、その中で彼らはやっぱり工夫し、知恵を発揮するんですね。
印象的だったのは、狭い児童館ですので、サッカー、ドッチボール、野球も、みんな仲間を連れて早くホールを取りたくて来るわけですね。早いもの順でサッカーやってて、野球の子が来たら、「なんだよ、俺たちやりたかったのに」って。「もうダメだよ」みたいな。またそこでも対立が起きて、「サッカーのやつらもう十分やったから、次、野球やらしてくれよ」みたいなことを毎日やるわけです。
結局、職員・児童館側は何をしたかっていうと、1時から2時がサッカー、2時から3時が野球、3時から4時がなんとかっていうふうに、要は施設管理上、そうせざるを得ないっていうことと、そうやって子どもの自由に遊ぶものをある程度仕方がないという言葉の中で制限をするしかない。現実的に、200人以上子どもたちがあんな狭いとこにウジヨうじょいて、そこに「鬼ごっこやりたい」とか、「ろくむしやりたい」とか、「エスケンやりたい」みたいな、もうみんなの「やりたい」がもうぶつかり合うわけですから、やっぱりそれはすごく大変な状態で、それぞれの「やりたい」が大事にされるためにどうしたらいいのっていう、そこはいつも悩んでいたし、その1つの答えとしては、児童館側から、大人側から、「こっから、これはオッケー」「ここは、これはダメ」っていうことを言うという管理の始まりが当時から行われるようになっていくわけですね。
しかし、権利条約ができた時に、子どもの意見を聞いて参画するんだっていう時に、ちょうど僕らは子ども会議とか、子ども運営委員会みたいのを作って行こうとしていた時期だったので、この狭い中でも子どもたちが十分にできるように、「なんか手立てがない?」って子ども会議で話をするみたいなことが起きていたわけです。その時に、あんなにいつも揉めてる子どもたちが全員一致で言ったのが、「児童館をもっと広くしろ」っていう、これはもう最高にその通りなんだけど、「無理です」っていうことになるわけですね。仕方ないので、「申し訳ない、1時から2時が野球で、2時から3時が」っていうふうな提案をするわけですけど、やっぱり納得いかない。「どうしよう」っていう中で彼らが考え出したのが、ルールを変えて、野球もバットを使わないで、サッカーもボールを柔らかくするとか、ドッチボールもゴロにするとか、いろんな、形を変えて、狭い中でできることがないだろうかとか、抽選にするとか、いろんなアイデアが出てきたんですね。
そこで生まれた「ゴロドッジ」とか、野球も「手首野球」って、これはもうキタさんの話で有名なんですけど、手首だけで打つっていう、そんなものが生まれたりすることを通して、大田先生が言う、当たり前だと思ってるこの権利は、関わり合いの知恵を出しながら行使されていくっていう、「あっ、遊びの現場でこういうことが起きている」っていうことが見えてきました。僕の中では、自分を大事にして、他の人のやりたいも大事にして、みんなで考えていくっていうことの中に、権利の主体者としての意識が磨かれ鍛えられていくと思ったのです。僕の最初の権利と遊びっていうことを考えるきっかけで、その後アフタフバーバンになった時に、遊びのワークショップを通して権利を考えようっていうことのスタートになったというふうに考えています。
さて、本題に入りますが、「遊びは子どもの主食です」ということを31条のひろばでも掲げながら、10年以上前に話し合ったことではあるわけですけれども、「遊びを、じゃあ北島はどう捉えてるんですか」というふうに言われると、僕はこう考えます。
「言いたい」「決めたい」「やってみたい」。自分の心が動いて「こうしたい」っていうことがすべての子どもたちの遊びのスタートラインだというふうに思っているし、それは関わりの中で、例えば技術が同じじゃなくても、下手な子がいても上手な子がいても、あるいは広くなくて狭くても、その状況に合わせてルールを作り変えながら、変化あるいは生成・創造されていく、それが遊びだと。だから野球も、これはいつもいう話ですけど、「今日は三塁から、逆から回ろう」っていうことは、野球の遊びはできるわけです。さっきも言った「手首にしよう」っていうことは、遊びとしてはできるわけです。これは当然リトルリーグや競技スポーツでは絶対やってはいないわけですよね。遊びだから「今日は逆回しな」みたいなことができる。
さらに予想外のことが起きる。例えば、技術が同じ子ばかりで野球をやりたいって思いもあるけど、急にその1人の子の弟が来て、「なんだお前、弟つれてきたのかよ」っていったら、泣き出して、「じゃあこいつをどうする?」みたいなことが起きた時に、「じゃあおミソで入れる?」みたいなことをきめる。そんなことしょっちゅうですよね。人数が集まらなければ、ルールを知らない子にも声かけて「とにかくやって!」みたいなこともあったし、予想外のことが起きた時にどんなふうに対応するのか。それもまさに遊びであるし、それは全部面白い、楽しいことやりたいっていうことに向かってそれぞれが合意していくっていう、そのプロセスが遊びではないかというふうに捉えています。
で、僕自身が児童館の中で最初にゲーム大会をやった時に子どもたちに言われた言葉が、「ね、もう遊んでもいい?」って言われたんですね。まだゲーム大会終わってないんですけど。それは僕にとってものすごいショックで、「遊ぶ」っていうことを考えるきっかけになるわけですけども、僕は一体なんで楽しそうにゲームをやっているのに、「もう遊んでいい?」と言われるのかっていう。それは、僕が見ていたのは子どもたちの表情や子どもの声ではなくて、レクリエーション協会で学んできた集団ゲームのノートだったわけですね。
これと同じようなことをさせようと思っていると、子どもたちの中から、私たちがやりたいことを早くやりたい。そのさせられてるゲームが別にそんなに嫌なわけでもないし、楽しくないわけでもないんだけど、「もういいでしょ、早く私の遊びをやらせて」っていうことだったのかなとか。
こちらが何か無意識の中にでも、「この遊びはこう遊んでほしい」みたいな、「こうさせることが正しい」みたいなことが僕の中にもしあるとすれば、そのことを「もういい加減にして、もう付き合ったからいいでしょう」っていうことになっていくのかなとか。
当時ちょうど検定、一輪車、けん玉、コマ、ものすごい流行っていたので、一生懸命できないことができるようになるように子どもたちは頑張っていたし、大会の優勝とか名人になるために本当に一生懸命毎月1回のテストを受けながら、「やっと俺も1級になった」とか喜ぶわけですね。だけど、それと同時に、一輪車を逆さにしてかき氷にしたり、竹馬担いで鉄砲にしたりするっていうことが、同時に行われているっていうことの中に、僕はすごくそのことが、心が動いたわけですね。
だけど、ある大人は、「一輪車、そんなことするな」「一輪車、ちゃんと練習しろよ」という声かけがあった時に、「えっ、これ遊びですよね」っていう、どこかに大人の中で遊び方はこうだというふうに押し付けているとしたら、それは子どもたちにとってはとても窮屈だし、その中で生まれた「かき氷ごっこ」っていうのは素晴らしいではないかと、こう思ったわけです。
そこで、僕自身は、今、自分もアフタフバーバンになって、させる側になるわけですよね。体験をさせたいっていう人に呼ばれて、子どもがやりたいかどうかわからないのに、とにかくお金を取ってやる。それは子どもにとって、やりたいっていう子にとってはいいかもしれないけど、そうでない子は連れてこせさせられた、そんなスタートラインですから、先ほど言った、「言いたい」「決めたい」「やってみたい」っていう子どもの声を本当に聞けるのかっていうところが僕らに問われていると、そんなふうに思いながら子どもたちの遊びの活動をしています。
さて、そこで、いよいよ「主食」という意味合いになるわけですけども、子どもたちの「遊ぶ」という権利を保障するために「主食」って言ったのは、つまり、なくてはならない、当たり前だけど、食べなければ子どもは成長しない。私たちもそうですけども、栄養を取って動ける体になるわけですね。ビタミン、ミネラル、タンパク質、脂質、そういうものをしっかりと取らないと。しかも毎日毎日です。1週間にいっぺん食べればいいのではなくて、毎日摂取して子どもたちの体を、心を大きくしていくっていう、その主食になぞって、遊びも主食ですよ。つまり、遊ばなければ子どもは大きくなれませんっていう結構大胆な主張だったし、僕はそのことをすごく思ったし、遊びの主食の栄養素ってなんだろうっていうことを、逆に主食という言葉から考えさせられた。
夏休みにお母さんが忙しくて、お金だけ渡された子が毎日児童館に来てお昼を食べていましたけども、マックしか食べてなかったので、その子は8月31日の日に体重が12キロ増えてたんですね。で、私たちは、「何かを極端に過剰摂取させていないか?」「おいしい甘いデザートばっかりを与えていないか?」、あるいは「誰かの好みのものしか与えていないのではないだろうか?」、あるいは「つまみ食いをさせてないか?」、なんかこう、いろんなことが、感じたことが、この「遊びは主食です」っていう言葉の中で、僕の中ではすごく重なっていって、自分なりに3つのあそびの世界があるというふうに考えます。
これは増山先生も前回の「ひろば」でも強調していたんですけど、その3つが、「名もなき遊び」と「名前のつけられる遊び」と「ファンタジーと現実を行き来する遊び」、これが子どもの遊びは主食になるために必要な世界です。
この3つについてもう少し深掘りをしていこうと思うんですけども、まずは、「名もなき遊び」と言われる、でもこれは考えてみたらほとんど子どもの生活は「名もなき遊び」かもしれませんね。いわゆる大人から見ると、「無駄で」、「しなくてもよくて」、「意味がなくて」、「よくわかんなくて」、「役に立たない」し、「特にやらなくてもいい」「道草や寄り道」みたいな世界です。要するに大人から見て何をしてるかがわからない、あるいはなんでそれをするかがわからないっていうような。だから大人はわりとそのことに無関心っていうか、そんなことが子どもの栄養になるって思っていない。例えばもちろん牛乳も鼻から飲もうとしたりね、ポップコーンも自分がハトになって食べようとしたり、それこそ石があれば拾ってポケットにもいっぱいになっちゃったり、「とにかくそういうことやめて!」みたいなことをたくさん子どもたちはするわけですね。
横断歩道だって白線しか歩かないみたいな。なぜそう決めるか。そうしたいんですね。夏の時期になると涼しいとこっろや冷たいところ見つけて休んだり、今はね、外になかなか出れないんですけど、「影踏み」っていう遊びがありますけど、影だけを歩いていく。それは人間の影だったり、建物の影だったり、公園に行くまでに影だけ歩いていくみたいなこともしました。こんなことしなくてもいいんですよ「しろっ」て大人は誰も言ってない。早く目的地にまっすぐ行きたいんですよ。なのになぜわざわざ影に行くんだろー。
そういうことは取るに足らないし、そのことが表舞台に出ることはほぼない。だけど、実はこのことがものすごく大事だと僕は思っていて。自分で聞けて、やってみる中で、うまくいったり、する充足感やうまくいかなかったりすることなど。
また、道草などは街との交わりもあって 工事現場の人が怖かったり、やさしかったり、「ダメダメじいさん」とあだ名をつけていたり。すごーく狭い道を見つけて通ろうとしたり。すごく吠える犬の家の前では気づかれないようにそーっと歩くとか。
良いにおいのするケーキ屋さんの前で必ず立ち止まって、匂い嗅いだり、歩いてる時にカラーコーンがあったら、ある女の子が一周したんですね。「なぜっ」て聞いたら、「一周すると願いが叶う」って。
ちょっと安心しますね。今もそんなふうに子どもたちはあそんでいる。
まるで、子どもの心に自分達だけの地図が出来上がっていくように。
さらに勝ち負けのあるスイカの種飛ばし大会をやっても、遠くに飛ばす大会なのに近くに飛ばすことを喜ぶ子どもがいたり、片付ける時に、「こんなでっかい種発見!」を見つけてひたすら喜んでる子がいたり。勝ち負けばかりではなく、答えは1つではないんですね。それはみんな一人一人の中の「こうしてみたい」とか、「こんなことみつけた」とか、それは取るに足らない、大人からしたらたのしいの?、だけど、その子にとって「自分がこうしたいということをやった」という満足感とか、自分が発見した!っていう充足感とか、大袈裟に言えば達成感であり、生きる意欲みたいな。
で、それって、その子にしかわからないし、その子にしか感じることができないもの。でも、それこそが、その子自身、つまり己を形作っていくのだと。何が好きで何が嫌いで、石を集める子もいれば、石に全く興味ない子もいるし、木の枝ばっかり集める子もいれば、そこに興味のない子もいるし。自分は何に興味があって、で、ちょっとやってみようって思ったことをやった時の充足感って、これは多分、大人たちが忘れている大事な、その子自身を形作る大事な満足感ではないかっていうふうに思うようになったわけです。それと自分の心が動いているという事。自分の体を使っているという事。誰かが言ったからではないし、そうしたら得をするのでもないし、自分のやりたい!に向かってチャンと心と体を動かすことをこの時間を通して身に着けているのかもしれません。
そこで、大人たちには、絶対言ってはいけないことが2つあります。1つは、「二度と鳩になるな」とか、「二度と猫になるな」とは言わないでね。それからもう1つは、つまり答えを1つにしない。スイカの種飛ばしは、遠くに飛ばした人がいいのであって、「近くに飛ばすなんてもってのほか」って思うこと自体がおかしい。
そしてもう1つは 00は00だけど00だけじゃないという世界です。例えば、机と椅子を使ってUFOの基地を作ったりします。必ず大人は「机と椅子は遊ぶもんじゃないからやめなさい」と言います。しかし、子どものこの「名もなき遊び」は、その辺にあるものを使って「UFOの基地ごっこ」をしてしまう。台所用品を借りて、鍋の蓋とかお玉使って、なんか操縦席みたいのを作っちゃう。そういうことがこの「名もなき遊び」の中にはあって、でもそれはものすごい発明ですよね。でも大人はどうしても「遊ぶものではありません」という正しさを持ち込んでいくわけですけど、でももしそれがよっぽど気に食わないんだったら、ちゃんと遊んだ後、「洗って、ちゃんと元に戻してください」と言えばいいだけであって、遊んでる今、そこで発明してること自体を奪う必要はない、そんなふうに僕は思っています。
2つめは、「名のつく遊び」です。これはまさに、「名もなき遊び」は自分個人のものが多いですが、、「名のつく遊び」は、他者との交わりの中で、他者との関わりの中で、しっぽ取りやドロケイやエスケンや鬼ごっこや缶蹴りやドッチボールや野球をどうやってうまくやろうかっていうことが、この「名のつく遊び」を通して、毎日毎日子どもたちの中に対立・葛藤を生み出すわけです。みんなが「うん、それで行こう」ってすぐ言えれば全然問題ないし、むしろ長くやっていけば仲間がいて、缶蹴りなんかも、「じゃあ、あのルーで行こう」「オッケー」みたいなことはすぐできたわけですけども、なかなかそうはいかない。
例えば僕らの時代は、仲のいい友達としか遊んでないってことはほぼなくて、公園に行ったら誰かがいたので、その子たちと遊んでいたので、遊びを通して子どもが繋がるっていうのは、ある種当たり前。今忍者修業とかやってても、よくお母さんから「友達同士同じ班にしてください、そうしないとこの子は遊べません」って言うんだけど、「え、そんなこと全然ないよ、忍者やって普通に赤の他人だってちゃんと遊べるようになるよ」って言っても信じてくれないっていうか、そういう体験が子どもも少ないし、お母さんも少ないので、「わかりました、じゃあとにかく不安なので、この子とこの子はじゃあ一緒のチームにしますね」ってふうにはやりますけども、最終的にチャンバラなんかはもう全然関係なくみんながガンガンやりますから。やっぱり子どもの中の「遊びながらつながっていく」っていう事が行われています。
これも大事な栄養ですね。そういう意味では、名のつく缶蹴りや鬼ごっこも、「誰が鬼やる!」みたいなというとこから始まって、途中だれかがずるして、誰かが止めたりして、けんかになってりして・・・。
どうやったらこの中でみんなにとって一番いいものを見つけられるかっていうことが問われてきます。これこそが「名のつく遊び」の最大の魅力というか、つまり、葛藤とかうまくいかないみたいなことこそが栄養源。 だから「鬼は先生やるから、子どもたちやんなくていいよ」みたいなことはもってのほか。、ずるが起きた時にも、あるいは、なんか喧嘩あっても、「はい、まず謝ろう」とか、「ズルはダメね」っていうのもその通りなんだけど、正しいんだけど、もっと子どもたちの中に出てくる、湧き上がってくるものを待ちたいのです。早く答えを提示しないでって。
子どもたちから湧き上がるものって、その日は喧嘩別れして、次の日ももうやらない。3日経ってもまた鬼ごっこも、揉めてまた喧嘩になって、あるいはドロケイでズルして喧嘩になって、3日も4日もやらなくて、ちょっとほとぼり冷めた頃に、「今日、鬼ごっこやる?」みたいなことが起きて、そうすると、1人の子が「ちょっと考えてきたんだけど」って、作ってきたあみだくじを出してくるんですね。あみだくじで決めようぜ」みたいな。それはちょっとね、感動しちゃうんですよ。それでもやっぱり鬼は嫌だ!という日もあって…。考え付いたのが全員鬼ごっこ!
しっぽ取りでパンツの中に入れて、ちっとも尻尾を出さない子がいた時に、「尻尾をたくさん増やそうぜ」とか、いろんなアイデアがそこで出てくるっていうことこそが、最初に言った権利っていうことの土台を作っているっていう、この大事な遊び世界ではないかなっていうふうに考えました。
大人は、まさにこういう時に、子どもたちが「考えていく」っていう時間を保障してほしい、「考える意欲」を潰さないでほしい、と思ったりします。すぐ答えを出さなくてよくて、一緒に考えていくみたいなことができたらいいのかなっていうふうに思いました。
さて、時間があと5分ぐらいになってしまいましたけども、最後が「ファンタジーと現実の行き来」という、これも子ども時代の非常に特徴的な遊び世界であります。
例えば、犬の足跡さえも彼らは「河童ではないか?」と物語を発するし、壁にチョコレートの匂いがしたら、「これ、壁を塗った人がチョコレートが好きだったのではないか?」と物語り、祠に白い石が敷き詰めてあると、その祠の白い石の四角い石みつけて、「神様の歯?ではないか?」と物語る子どもたちがいます。
忍者修行をやっても、巻物が入っているはずだった箱を見つけて、その箱を開けて巻物を取って戻るっていう修行が、スタッフが忘れて巻物を入れなかった。これはミスなわけですね。ミスなんですけど、その瞬間、彼らは「これは罠だ!」と言ったわけです。「罠?」「そうしたら、箱の傷みたいのを見て、「これだ!」。「どれだ?かわかんない」「これがあやしい」ということに。彼らは「これはきっと陰忍者、敵の忍者がここには入ってないぞ」「持ってるのは俺たちだ」みたいなことではないかという物語を、そこにいる40数人の子どもたちと、「そうだそうだ」と共有します。、そこから聞いてない影忍者に40何人がみんな影忍者を囲むように影忍者を追い詰めていくっていう話になるわけですね。聞いてない影忍者はびっくりしちゃって全速力で逃げていましたけど・・・。そういうことを彼らはやるんですね。それは、現実に起きてることをどうしたら自分の中で心の安定というか落としどころを見つけていくんですね。しかもこうした方がおもしろい!っていう。しかもみんなでその物語を共有して、やっていこうっていうようなことがそこでは行われているんです。
アフタフバーバンのワークショップの時、コミュニテイーセンターにあった椅子が納豆臭くて、「この納豆臭いこの椅子には、実は納豆お化けが住んでいるのではないか」という物語を作り、みんなで納豆お化けを退治するダンスを作るっていう、そういうことができる子どもたちなんですね。何だろう?嘘っぽくて、そんな馬鹿みたいな物語って言うなかれ。だって、現実の椅子と向き合い、現実の祠の石と向き合い、現実の犬の足跡と、ちゃんと現実と向き合ってるわけですから。それが今の自分たちにとってどんな意味があるのかを必死で考えているのですから。
忍者修行をしたとき。影忍者がいるって言ったら怖くて動けなくて、尻もちついて動けない子がいたんです。そしたら僕らは勇気を出す術っていうのがあって、「勇気凛々1」みたいなことをその子にやったんですね。でも効かなくて。そしたら、他の子が「みんなでやろう」って、その1人の子をみんなで囲んで、「勇気凛々!」って。そしたら、その子がすっと立ったんです。「いける?」っていったら「いける」って。「ほーっ!」自分でもびっくりしてて。「自分なんだけど、今日僕は忍者だから」っていうような、このファンタジー遊びの中の、自分のこう、発達の欲求じゃないですけど、本当は「こうなりたい」、本当は「自分はこうしたい」みたいな、そういうものがイメージを通して、ファンタジーの世界を通して実現できるっていう力があるんではないかとか。
もう時間がないですね。一緒に関わる大人たちは、そういうイメージの世界を、共にこの物語を、「そんなの嘘臭い」とか、「そんなことあるわけないじゃん」ではなくて、一緒に生きていくっていうことができたら、子どもたちの権利としての遊び、主食としての遊びはもっと豊かになるのではないかなと、そんなふうに思っています。以上です。ありがとうございました。
