2025年5月31日(日)18:00~20:00 オンライン
(多田〈ただじゅん〉)
すいません、ちょっとバタバタで、レジュメもなんか書き殴ったみたいなものを送ってるので、まとまった話になるかわかりませんが、私の今の関心事、考えてることを、皆さんの考えのなにかきっかけになるといいなという程度で話を聞いていただければと思います。
タイトルが、「子ども時代の伝統芸能との出会いの意味」ってなってましたが変更で「現代の児童演劇と子どもたちのこと」についてお話しさせていただきます。
文化的生活、子どもたちが文化的な芸術との出会うべきということが31条に書かれてるわけです。それがさすことは多岐に渡っていて、子ども自身が音楽や演劇をやる、体験するっていうことまた、アマチュアのママさん人形劇などにふれることなど、非常に枠が広いので、私が一応プロとして舞台で子どもたちに鑑賞してもらうという仕事をしているということで話をそこに絞ります。
ジャンルも音楽とか芸能って広げていくとすごく多岐に渡るので「プロの演劇を鑑賞する」ということについて絞ってお話をさせていただきたいと思います。
まず自己紹介、私は劇団風の子というところから独立してもう20年以上、1人で保育園や幼稚園を舞台上演して回るという活動をしています。時には、ユニットを組んでお芝居をするというようなことや、どこかに客演するというようなこともふくめ、ずっと子どもたちの前で舞台に立つという仕事をしてきています。年間160ぐらいのステージを上演、その他ワークショップですとか表現あそびをする活動を100回ぐらいの割合でやっていて、とにかくほぼ毎日、子どもたちの前に立っています。
どうして僕が子どもや幼児や低学年、それから障がい児などを対象に活動してるかというと、「楽しいから」です。舞台への反応がストレートで、大人の観客と違い、子どもたちはその場で声を出す、暴れる、楽しければ集中する、楽しくなかったら出てっちゃう、みたいなことがほんとに楽しい。
つまり、生の舞台っていうのは観客と一緒に作るものなので、一緒に作る相手として「子どもが面白い」と思い活動を続けてきました。
子どもの権利条約31条は「遊び」と「余暇」と「芸術」の権利ですよね。この「遊び」と「芸術」が同列にここに書かれてあることが意味のあることだと僕は感じています。
ともすると日本の児童演劇っていうのは、「演劇鑑賞教室」とか、それから「演劇教育」と呼ばれ、「教育」というカテゴリーの中に位置づけられて、それで学校公演を取り組んできたのです。
でも、教育の権利、学習の権利みたいなのは28条に書いてありますが、子どもの権利の中で、31条で遊びの権利と同じところに演劇を含む芸術が含まれているって、すごく大事にしたいなって僕は思っています。遊びの延長線上に文化芸術がある、遊びの延長線上がアート、アートの活動を遊びの活動として広げていくことが大事だなって思っています。
そもそも「アートの根っこは遊び」なので。「演劇の根っこはママゴト」だし、「絵画の根っこは落書き」だし「彫刻・彫塑は砂場遊び」だし、「歌唱はデタラメ鼻歌」だし、「楽器は何かを叩いたり弾いたり」だし、「プープー葉っぱを吹けば吹奏楽」だし、「小説や文学は嘘っこ話」からスタートしてるし、、、全部子どもの遊びが芸術の根っこですよね、文化芸術は遊びであってほしいのです。
遊びとアートに境目はないですし、子どもたちにそこが大切だと思いますす。とりわけ演劇はイメージで遊ぶことが一番できるものだと思っているのです。
じゃれつき遊びとか、ただ走って競争する遊びっていうのは、哺乳類に必要な遊びで、体を発達させる遊びですよね。猿とか犬でも走ったりじゃれたりする遊びはできるんですけど、「空想して遊ぶ」「お話を空想したり嘘っこで遊ぶ」っていうことは、人間にしかできない遊びなので、その人間にしかできない遊びを子どもの頃にたくさんすることで、本当に人間として育っていくっていうことに繋がるんじゃないかなと思っています。とりわけ、「人間になる遊び」っていうとすごいかっこいいですけど、「演劇は人間になるための遊び」なんじゃないかなって僕は思っています。
とりわけね、9歳までの子どもはね、日常でファンタジーと現実の間を行ったり来たりしてる。9歳児が一番面白いって、僕たち子どもに関わってる大人はみんな言うんですけど、9歳まではサンタクロースを信じてる。簡単に言えば。9歳過ぎると、「もしかしてサンタはいなくてお父さんがプレゼント置いてるのでは?」みたいなふうになる境が9歳ですね。ファンタジーの世界と現実の世界を行ったり来たりしているから、僕たちから見れば面白い、客観視しないイメージの膨らませ方ができているんですね。
イメージで遊ぶっていう時に一番大事なのは、いろんな体験がイメージを膨らませるっていうことなんですよ。9歳から10歳ぐらいになって、いろんな世の中のことがわかってくると、イメージが具体化していくんですね。で、このイメージで遊ぶっていうので一番大事なことっていうのは「感じる」こと。「考える」のではなくまず「感じる」こと。その感じるものを頭の中でイメージを具体化するのに、体験がないと具体化できないわけですよね、実際には。
実体験に基づく脳の中で再現しているので、言葉を聞いて何かを思い起こすっていうのは、例えば、海の中に潜ったことのある人が「海に潜った」っていう言葉を聞いた時に頭の中に想像するのと、海に潜ったことのない人が「海に潜った」っていう言葉を聞いた時に想像するものが全く違いますよね。
ですから、子どもたちにはファンタジーで遊ぶだけではなくて、実際の体験、実際の遊びの体験、冒険遊び場の方たちがやってるような遊びの体験が、ファンタジーを広げるために実は必要なんですね。ファンタジーをたくさん子どもの時に体験するということが、実社会の生きていく中で出会う困難を乗り越えていく力になっていく。「ドアの向こうにねずみばあさんいるんじゃないの。」みたいな、ファンタジーの遊びをいっぱいやることによって、実は困難やいろんな目の前の問題、具体的に起こる問題を乗り越えていく力をそのファンタジーの中で育てているんだっていう。
だから、両輪なんですよね。ちなみに子ども劇場運動っていうのは、それを昔から2本の柱って言って、「生の舞台を見るということ」と、「実際にみんなでキャンプに行ったりして遊ぶこと」の活動をしてきたんですけど、まさに、そのことだと思うんですよ。
分かるとか分からないとかっていうことじゃなくて、感じるとか感じないとかみたいなことが文化芸術にはとても大事ですよね。
今、児演協などが先立ちして、ベイビーシアター、赤ちゃんにお芝居を見せる活動が広がりを見せているんですが、「赤ちゃんになんかお芝居見せたってわかるの?」と聞かれるのです。
わかるとかわかんないとかじゃなくて、そのお芝居を見ている時間を身体全体で感じるということが、その子の中に何か影響を与えているのですよね。
高齢者を例に出すと、この前93歳で亡くなったうちの義理の母、アルツハイマーでほぼ何も分からなくなってきているのに、桜の花を連れに行ったら、「綺麗だね」「綺麗だね」って言うのです。でも帰ってきて、「お母さん、桜綺麗でしたね」って言ったらもう忘れてるんですよ、短期記憶がもうなくなってる。では、そのおばあちゃんに桜見せなくてよかったのか、覚えてないのに桜見せなくてもよいのか。赤ちゃんはこういう会話ができないので、アルツハイマーのおばあちゃんに教えてもらってるのですが、そういうことだと思うのです。
赤ちゃんにさっき見たお芝居面白かったねって言っても、忘れてると思うんですよ。だけど「そこにいた体験、時間を共有した体験」が、低学年・幼児・乳児にすごく大事なのではないでしょうか。
生の舞台を観ること、子どもの生の舞台鑑賞っていうのは、大人は舞台を「鑑賞」するのですが、子どもは「鑑賞」ではなくて「子どものまるごと舞台体験」なのです。舞台とコミュニケーションしている。舞台に立ってる私たちと子どもたちがコミュニケーションしている。そして、観客同士の子どもたちもコミュニケーションしているんですね。
他にも大人が創ってきたアートは、文学や映画、絵本、テレビドラマ、いろんなファンタジー世界があるのですが、同じ会場で同じ時間に同時体験としてファンタジーを感じる体験できるのは、生の舞台しかないですよね。
映画館に行っても、観客同士の同じ体験はできるけど、舞台と同時刻を過ごすことはできない。舞台に立つ人と、観客同士が一緒に同じ時間を集まって過ごすっていうのは、生の舞台体験しかない。
生の舞台はお客さんが1人もいないところで上演して最後まで通したって、それは演劇ではないですね。演劇になってない、お客さんがいないところでやったらただの練習なんですよ。稽古、リハーサルでしかないのです。お客さんたちと一緒にできて初めて演劇という芸術が成り立つところに、つまり積極的に参加しなければ成り立たないものが生の演劇で、そこに立ち会うことなのですね。
子どもたちはキョロキョロ、キョロキョロしながら舞台を観ます。保育園や小学校公演では保育士や先生が子どもたちを指示して静かにさせて、「しー」「前を見なさい」と言いますが、子どもたちは絶対キョロキョロしながら見るんですよ。どうしてキョロキョロしてみるかって言うと、舞台で面白いことが起こったら、お友達と顔を見合わせて「面白いね」って、言ってから、また舞台に戻るんですね。それから、後ろの席や横にいる先生やお母さんを必ず見て、先生やお母さんが笑ってる、拍手してる、泣いてるみたいなのを確認して、安心してまた舞台に戻っていくわけですね。
後ろを見たり、友達を見たり、そして舞台を見たりしてキョロキョロしながら見ていく。ドキドキハラハラするシーンは、足をバタバタする。キューって体が小っちゃくなる。体全身を使って舞台を体験してる。受動的に鑑賞してるんじゃなくて、能動的にそこに参加してるんですね。
参加できることが生の児童演劇の良さだし、その場で友達と共感、ファンタジーを共有しているという共同体験が子どもの観劇体験で、こういう時間が本当に子どもたちを育てていくのではないのかなと僕はずっとこの仕事をしてきて思いますし、これが舞台芸術の醍醐味なんだと思っているのです。1人でYouTubeの動画をスマホで見ているときにはあり得ないことですよね。
アート・芸術っていうのは、何のためにあるのかと言えば、人生を豊かにするためにあるわけです。アート・芸術と子どもの時に最高の出会いをしていれば、大人、高齢者になってアート・芸術に触れていくと思います。
子どもの頃に舞台との出会いがなかったら、一生舞台と縁遠いだろうし自分でやってみたいともならないと思うんですね。習い事としてのピアノは、習い事で習ってる間しかやらないんですよ。こんなに弾かれていないピアノが存在してる国は日本しかないらしいんですが、ピアノ教室やめたら、もう弾くのやめてしまうのですね。
習い事ではなく、楽しい音楽体験として出会えば能動的に関われば最初はデタラメでも、そのあと続いていくわけですよね。ですから、そういう最高のものとの出会いを、子どもたちに、チャンスを、機会を持っていくことが必要ではないのかなと思います。そこで、子どもたちに生の舞台に触れてほしいと思っているのですが、現状どうなってるのかお話します。
子どもたちに向けた舞台。まず幼稚園、保育園などはまだ観劇をするということ、人形劇などを観劇するということが一応位置づけられ認識されてはいて、まだ激減はしてないです。
ただし、私立の保育園や幼稚園に限ります。公立の保育園は予算がないので、ほぼ観劇をやっていません。ごく一部、行政で予算を取って上演する市や、市内の保育園全体で一斉にお金を集めて上演しているところもありますが、日本中全体では公立保育園では観劇会はあまりやられてません。
例えば私の住んでいる板橋区では、公立私立の園長会が主導して年長組の子ども大ホールに集めて人形劇団プーク観劇していましたが、予算がバッサリ削減されて実施が無くなりました。
ここ20年から10年の間に全国的にもそういう取組がどんどんなくなっています。生の舞台に子どもたちが触れる機会が本当に少なくなってきています。
東京都の公立の児童館は20年ぐらい前まで観劇のための予算があって、3人班ぐらいの作品をずっとやってましたがこれも一切なくなりました。児童館の観劇会はほぼ壊滅状態です。
小学校での公演は戦後、児童劇団と学校教師たちが努力して、1人500円とか1,000円とか先生がお金を、小銭を集めて上演する形の演劇鑑賞教室というのがかなり広がってきたんですが、週5日制が導入された時点で減少の方向に向かってゆき、授業時間が増えて、さらに減り、とどめはコロナ禍行事精選で壊滅し、それが今まだ復活していないです。
日本の児童劇団はコロナ禍後、コロナ補助金も無くなり、本当に経営難に陥っています。存続の危機です。老舗の劇団が実際に影絵劇団の「かかし座」が負債を抱えて倒産しました。かかし座っていうのは70年以上の歴史の劇団です。わらび座も倒産して、今立て直しているところです。そこまでいかなくても、本当に日本の児童劇団の運営が危ない状態になっている。
中学校の演劇鑑賞教室も減っています。残念な話ばかりしますけど。高校の演劇鑑賞教室も、劇団協議会というところの調査で、半減しているというデータが出ています。劇団協議会は、鑑賞教室を復活させてくださいという運動を、行政をまわったり、議員をまわったりしてやっていますが、高校の鑑賞教室も減っています。
ちなみに中学校の演劇鑑賞教室がなぜ減っているかというと、授業が厳しくなってきてて、行事精選という学校側の事情もあるのですが、劇団も作品を創っても上演機会が少ないつまり売れないので、中学生の鑑賞に最適の作品が日本にほぼないです。中学生に見せたい、中学生が見たい、そこに年齢絞った作品が少ないのです。プロですから、見てくれてる人たちがいなければ作品も創れないんですよね。低年齢ではベイビーシアターなどを創り出せる環境が出てきたのですが、今中学生のところが作品としては減ってきているということがあります。
それから、公文協、例えば板橋文化会館とか埼玉文化会館とかの協会、公立文化施設協会、公立のところが主催する企画では子どもの作品を取り上げることがとても少ないです。大体大人向けの作品で、しかもテレビに出てる、有名な人が出ている演劇。今多いのは吉本のお笑いライブです。吉本のお笑いライブなら必ず人が入る。公立の文化センターみたいなところは、観客席を満席にしたかどうかっていうことが一番問われるので、観客を集められる企画にする。観客席を対費用効果で税金かけてるのに満席にできなかったらどうするんだって話になると、やっぱり満員になるM-1チャンピオンが出る吉本お笑いライブになる。なかなか大人向けの演劇も少なくなってきてるし、ましてや子ども向けの作品は公文協で上演されるってことも少なくなってきているというのが実際です。やるとしてもベネッセのキャラクターしまじろうショーとか動物のマスクをつけたオーケストラで、確実に満席にできる舞台ですね。
今年、俳優座劇場という六本木にあるホールが閉館したんですよ。劇団俳優座とは別会社なので劇団は存続しているんですけれども、もう古くなった劇場をリニューアルする経費が賄えないというのが理由で、劇場が潰れたんですよ。
これは一番大きかったのは、やっぱり税金を払いきれない。固定資産税をはじめとする税金が、やっぱりどんどん劇場運営にかかってくるわけですよね。劇場運営には、宗教法人だとか学校法人みたいな税制優遇っていうのはないんです。演劇を上演し続けるホールを六本木の真ん中で持ち続けるっていうのは非常に困難だったのですね。ところが、そのすぐ後に建物そのまんまリニューアルして、吉本興業がコント専門劇場にするっていう発表がされたんですよ。これ、俳優座劇場の人たち知らなかったそうなのですが、驚きました。
吉本興業は、安倍政権下の時に、政府とか電通などで作っている民間ファンドのクールジャパン機構というところから100億円を超える資金をもらってるんですよ。吉本のお笑い芸が悪いわけじゃないけれど、、今世の中で起こってることが象徴的にここに現れたなっていうふうに思うのです。
新劇や演劇っていうのは、「考えながら観る」「考えながら人生を考えたり、世の中のこと考えたりして観る」っていう文化だと思うのです。それに対して、M-1グランプリの4分間に代表されるように、瞬間的に笑う、何にも考えないで笑える芸が公文協でも1位だし、俳優座劇場も買い取るし、それから、テレビのバラエティ番組もニュース番組もドラマも吉本芸人がそこを担うようになっていった中で、「考えない文化」の台頭みたいなことになってるのではないか。僕も吉本のお笑い好きで観ますので吉本のお笑いがなくなればいいとは思ってないけど。だけど、「考える文化」の衰退、「考えない文化」の台頭みたいなことがすごく気になっているんです主食ではなくておやつでいい。
子ども劇場運動も1990年をピークに会員減少が続いて半減しているわけですよね。同じように大人の鑑賞団体の演劇鑑賞会、昔の労演、ほんとに今会員がどんどん減ってしまって、会員の平均年齢が上がってなんと平日の昼にしか鑑賞例会をしないところが出てきてるんですね。働いてる人、見に行けないですよ。みんなで同時体験をして、みんなで見終わった後に感想を語り合ったりするっていうことが一番できるのが、生の舞台芸術の演劇なんですね。それがどんどん、どんどん衰退している。そして、片やスマホやSNS、タブレットを子どもたちが全員タブレットを持つ時代になって、わかりやすい一方的な情報を受け取るっていうことが子どもたちの中にも広がってきてるわけですよね。
生の舞台はとってもめんどくさい文化なので、何月何日の何時になんとかホールに集まれっていうことはすごく面倒くさいのに対して、手に持ってるスマホでショートムービー、今インスタの動く静止画みたいなショートに、もうどんどんみんなの見たいものが短くなっている。
テレビの録画も早送りしてみる、与えられるものを考えないで見続けるっていうことが子どもから大人まで広がってきているっていうことにちょっと危機感を抱いています。「わかる・わからない」「ためになる」を超えた、「感じる感性」「考える」みたいなことを子どもたちと今やっていくことが、子どもの権利31条、子どもの権利としての芸術に触れるっていうことの意味なんじゃないのかなというふうに思っています。
最後に、そんな状況を打開していくためには、劇団も頑張ったり、見たり聞いたりするような場がいっぱい作らなければならない。そのためには、日本には文化庁というのがあって、省じゃないんですね庁なんですよ。文化庁の予算が国家予算の0.1パーセントしかないんですね。ちなみにお隣の韓国は1.09パーセント。だから韓流ドラマとか演劇も今ね、韓国面白いんですよ児童演劇も。
韓国の児童演劇、人形劇ウニマの大会が今韓国で行われてるんですけど、やっぱり国を挙げてそういう文化芸術みたいな演劇をバックアップしていくっていう体制がなかったらなかなか実現しない。「自助努力」みたいなことで劇団が潰れていくっていうことに非常に危機感を持っています。
あんまり元気になる話じゃありませんでしたけど。
以上、30分ぐらいですので終わります。ありがとうございました。
2025年5月31日(日)18:00~20:00 オンライン
(大屋寿)
ただじゅんさんのお話を聞いていて、かなり重なる部分が多いなと。それは2人とも生の舞台芸術、中でも生の舞台芸術で、なおかつ演劇を中心に活動しているというところもあって、情報の共有も結構あるし、お互い一緒に活動してる部分も多いので、お互いの言ってることもだんだん重なっていくなっていうふうに思います。どっちが先に言ったんだっけっていうようなこともいくつかありますけれども(笑い)、だから重なる話をしてもしょうがないので、私からは、少し外枠と理念的な問題からは報告をしたいとに思います。
今日は初めて参加の人も結構いらっしゃるので、この取り組みの趣旨を簡単におさらいすると、この実行委員会は、みんなで議論をするってことを目的にする11月24日のフォーラムで、今の子どもたちの状況の中で、31条をどう広げていくか、なぜ広がらないのか、何が必要なのかをみんなで議論をして発見していこうということを重視しています。参加者が自分の現場とか実践とか研究とか、いうものをちゃんと持ち寄ってきて、主体的に参加していくっていうことを大事にしようということです。31条のひろばのフォーラムは今年で5回目になりますが、重ねてくる中でそういう方向に基本的には大きく整理されてきているんですね。
そういう意味では、今日初めて参加される方にも喋っていただきたい。正しいとか間違ってるとかいうことは、基本的にそういう評価は誰もしませんので、するべきでもないので、そういう議論の中でそれぞれが発見していくっていうことを、議論として大事にしたいし、新しいものを生み出していくための議論をしていきたいと思います。
欠席の報告が6件ありまして、今ここに16人の参加がありますので、私の報告はコンパクトにまとめて、できるだけ時間を作って皆さんのお話も聞きたいと思います。
それで、レジュメを見てください。レジュメの前に、1ヶ月ぐらい前に、その実行委員の皆さんには私の文章をお送りしました。こんな報告をしようと思ってますということだったんで、それを今日は少し整理して、レジュメのような形にしたということなんで、中身としてはほぼ一緒なんですけど、そこで書いていた文章の中身は、長野の子ども白書に、今年まだ出てませんが、今年、私が投稿した文書なんですね。
やっぱり「芸術、特に芸術文化について書いてほしい」っていうことで、特にリクエストがありましたので、ちょっと今思ってることを書いたんですが、その中で述べていることです。
今、僕が押さえたいなと思うのは、「子どもの権利条約っていうのはなぜ大事なのか」「なぜ結ばれたのか」っていうことを基本的に振り返っていく。そこをベースにして議論が組み立てられるといいなということです。
私はArt.31でいろんなものを発行したりしてますし、また舞台芸術のプロデュースもしているんですけれども、そして今日、また後でご紹介できればと思いますが、この「31条のひろば」を通じて出会ったアーティスト、特に演劇人の皆さんたちと交流を重ねてきて、今、一緒に新しい作品づくりにまで広がってきてる。先ほど報告したただじゅんさんとか北島尚志さんとか、そういう人たちと一緒に、それから名前だけ今のところ出てますけど、ヤコさんとか、けんけんくじらさんだとか、「31条のひろば」でみんなで、大宮で3作品一挙上演で、みんなで観ましたよね、作品を。、そこに出てた人たちが参加して作品づくりが進んでいます。。
どんな作品化というと、「子どもの権利としての舞台芸術ってなんだろう」っていうことをみんなで一緒に考えたい。先ほどのたださんの視点で報告されていた生の舞台芸術の魅力っていうのは、全くそこは重なるところなんですけども、子どもを権利の主体として捉えていくために、必要な、まさに生の舞台芸術なんだろうっていうことなんですね。
その生の舞台芸術の観客は、さっきたださん言われたように、受け身じゃない、受け手じゃないんですね。観客も主体なんだ。これは演劇の基本なんです。演劇の3要素っていうのを言われていますけれども、一番必要なのは、まず「俳優」ですよね。俳優がいなければ演劇にはならない。その上に、実は2つ目は説が2つあるんですけども、「劇場=場」ですね。劇場っていうのが2つ目。もう一つの説は「戯曲」っていう人もいます。戯曲っていうのは、台本ですね、物語のベースになるものがまずあって、それを俳優が演じる、っていうことで言うと、俳優が勝手にそこでパフォーマンスをするっていうことでは演劇にならないので、戯曲が必要だってことはあって、2つ目は「戯曲」「劇場」と二つの説があるのですが、その2つの説の両方1番目の俳優と並んで、これがなければ演劇じゃないんですっていうのがもう一つあるのです。先ほどたださんも言われた「観客」です。
つまり、観客のその想像力です。観客の想像力の中で物語が、像として結ばれていく。ですから、観客の主体的な参加がなければ演劇は成立しないということです。鑑賞という言葉を多くの人はは受け身、享受するというようなイメージで捉えますけども、鑑賞ってことそのものが自分の主体的な行為で、あるものを受け止めて、自分の中で膨らましていく、自分の中で想像力として膨らましてやっと成立するっていうのが演劇という芸術なのです。
これは実は音楽も、それから絵画もそうですよね。絵画にしても彫刻にしても、観客が見ることによってその価値が生まれてくる。絵そのものに価値があるっていうふうには本当はない。ないはずです。観客の目に触れなければ、その絵には何の価値もないっていうふうに僕は思いますし、だから狭く捉えずに、芸術そのものが、受ける側の人間の創造的、主体的な参加がなければ意味がない、成立しない。そういう意味で言うと、日本の芸術教育っていうのは、本来の楽しさを忘れている。だから楽しまなきゃ意味がないわけですよね。その「観客が」っていうことがまさに観客の主体性っていうことだと思いますし、僕らは、芸術への参加っていうのはそういうことだと確信しています。
つまり、子どもたちが主体的になっていく力を獲得していく、主体的に生きていく力を獲得していくために、まずは休息・余暇。これを奪ってしまうと子どもたちはもう疲れきってしまいますし、ただただ知識として詰め込んでいくだけでは自分のものになっていかない。自分が生きていくために使っていくためには、そこに主体的に考える時間が必要ですし、受け止めたことを自分の中で想像力として広げる、楽しむことがなければ力になっていかないので、休息・余暇っていうのはまずベースです。
そこから遊びという、いろんなことを試したり、いろんなものを影響し合ったり、化学反応を起こしたりっていう時間を意識的に持っていくことが必要になります。国連子どもの権利委員会がゼネラルコメント№17の中で言ってるのは、「遊びは子ども自身から生み出されていくものである」(Art.31訳)。子ども自身の自由な時間の中から生み出されていくものが「遊び」というふうに呼ぶとするならば、今、我々は、例えば子どもたちのデジタルゲームを遊びかって言われた時に、大きく言えば遊びではある。ですね。勉強ではない。勉強と遊びを対立させるとそうなるんですけど、でも、本来の意味で言うと、子どもたち自身から生まれてくる遊びではないというふうに思いますし、異論ももちろんあると思いますので、あくまでも問題提起というか、議論の提供をしてるんですけども、私は「デジタルゲームは遊びではない」と思います。
そしてもう1つ、「芸術」、これも観客の想像力ってものをどれだけ引き出せるか、どれだけ観客の想像力を信頼できるかっていうのが演出家や作家には絶対的に求められる。私は制作者ですけれども、稽古場でいろんな作品づくりの稽古に入って、演出家が俳優たちとどういう共同作業をしながら作品を作っていくかっていうのをずっと見てきたのですが、俳優たちに求められるのはやっぱり遊び心なんですね。
つまり、言われたことをちゃんとやるのだったらロボットの方がちゃんとやるでしょうし、言われたことをちゃんと構成して絵にしていくだけならば、映画の方が力はある。映像の方が、力がある。でも、さっきただじゅんさんも言われたが、生の舞台の俳優は観客の前に立って、そこで生きなきゃいけないわけですね。生きてる人間、生きてる世界をそこで生み出していく。そのことによって、観客は想像力によって、それを自分の体験と重ねたり、自分の思想や哲学と重ねたりしながら物語を楽しんでいくっていう、そういう主体的な活動ができるわけです。その俳優たちはただ真似をしてるだけじゃないんですね。セリフを覚えて順番通りに言ってるだけではない。そこではセリフっていうのは会話ですから、生きてるものでなければ想像力に働きかけないんですよ。だから演出家なんかがよく言うのは、「そんな段取りでセリフ喋るんだったら、観客に台本を渡しゃあいい、観客に台本渡して読んでもらえよ」って。「お前が読むよりよっぽど観客の想像力を湧かすよ」っていう言い方をしているのを聞きました。
基本的にはそうなんだ。俳優たちが自分で台本を体に入れて、舞台で生きていく、それが演劇の俳優たちの技術なんだ。だから、そういう意味で言うと、観客と観客の想像力、観客の主体性を邪魔しない。ですから、さっきのデジタルゲームは遊びじゃないんじゃないかっていう問題提起と重ねて言えば、「エンターテイメントというものは、実は舞台芸術ではないんじゃないか」と私は思ってます。
エンターテイメントっていう言葉ありますよね。「エンターテイメント」っていう言葉を日本では「娯楽」って訳すんで、本質的な意味が、僕の中で迫ってこなかったんですけど、英語の辞書を引いてみたんです。そうすると、「おもてなし」って書いてある。で、なぜ引いてみたかっていうと、31条のゼネラルコメントの中に、「子どもたちにとっての余暇は、レジャー、自由裁量の時間で、労働や親の指示や命令や、そして、エンターテインメントのない時間が子どもには必要なんだ」って書いてあるんですよ。エンターテインメント=娯楽って、僕ら演劇とか、みんなエンターテイメントだと思ってましたので、エンターテインメントを否定されてるのかっていうふうに思ったので、少し深掘りしてみたんですけども、そこに「おもてなし」って言葉を当てはめるとよくわかる。
つまり、「おもてなし」っていうのは受け身ですよね。与えられるもの。そしてなおかつ、「おもてなし」っていうのはコンテンツとして売り物になる。これはちょっと大きなところで、いわゆるショービジネス、つまりビジネスとして成立させる、商品として売れる。さっきの吉本の話が出ましたけど、吉本もそうですし、いろんな今の音楽芸能なんかも、つまり観客に刺激を与え続けることによって観客を飽きさせない。そのことによって観客は喜びますよね。楽しいですよね。ジャニーズもそうです。タカラヅカもそうです。そういうある意味でコンテンツとして売れるものっていうのは、ある意味で与え続けるってこと。それ、さっきの子どもたちのゲームも一緒じゃないですか。とにかく刺激がどんどんエスカレートしていく。
それはね、つまり人間を楽しませようと思って、それはお金に全部変わっていくんですから、それは本気になりますよね。大人たちの楽しみの粋をそこに集めてゲームにしていく、あるいは舞台にしていく、ステージにしていくっていうすごい大掛かりなエンターテインメントっていうものが提供されますし、歌舞伎なんかでも、歌舞伎そのものはやっぱり古典芸能として相当ある意味では削いで削いで、見得(みえ)とか、映像がないからそうしたっていう言い方もあるけど、そうじゃなくて、やっぱ観客の想像力に働きかけてるわけですよね。
「六法(ろっぽう)」とか「見得」とか、いろんな典型的な動きがありますけども、そういうものは、それから狂言もそうですね。それは観客、見る側の想像力ってものを働かせていく、豊かにしていくっていう、信じていくっていうことで成立するのが芸術っていうことで言うと、今のエンターテイメントは、例えばスーパー歌舞伎なんかにしても、本当にまさに「外連(けれん)」っていうものを超えて、とにかく驚かせて刺激を与え続ける。
で、刺激を与え続けられると人間どうなるかっていうと、依存が生まれるんですよね。薬物もそうですけど、アルコールもそうですけど、どんどん高いものを求めていく。自分で噛んで甘いものを食べて、喜びのホルモンが体の中で湧いてくるのと違って、アルコールを飲むことによって自分を高揚させていく、薬物的に血流を作り出し、まさに刺激を与えられることによる楽しみを求めていくと、そこには依存が生まれてくる。子どもたちがゲーム依存症になったり、あるいはエンターテインメントのファンがそこで依存症になっていく。本当に若い子たちがタカラヅカのファンで、お金を山のように使う、あるいは宝塚周辺には家出少女のねぐらがあるぐらいの社会問題にもなってました。依存を生み出すし、それは結局作る側から言うと支配できる。
これはドイツのヒットラーが戦時中に映画や音楽を使ってまさに世論を作っていった、世論を支配していったっていうことに似てて、演劇も、日本でもそうなんですよね。演劇はなんか平和の力みたいなことを今言いますけど、演劇は、戦時中は戦意高揚のために、慰問団を作って戦地にも派遣したし、日本の中でもそういう戦意高揚を作り出していくっていうことに一躍を買ってしまった。それに対する反省が戦後新劇というジャンルを作り、社会ときっちりしっかり向き合っていくっていうことを目指した。
社会に対して言論の自由、表現の自由を、それはマスメディア、マスコミとは違う、ジャーナルとは違う意味で、社会の中に、先ほどたださんは社会を「考える力」と言いましたが、それを共有していくっていう芸術になっていった。やっぱり過去の歴史に対するアンチテーゼというか、自己批判があったんですね、演劇の世界の中に。
そういう意味で言うと、まさに主体ですね。観客の主体性。子どもたちになぜ生の舞台芸術を見せるか、共有するかっていうと、そこの子どもたちの主体性をどう育んでいくのか。それと、子どもたち自身が自分の主体性を広げていく、夢や想像力を広げていくっていうドラマやファンタジーの力を広げていくっていう主体性を保障するってことをしなければ、子どもの権利としての舞台芸術にはならないんじゃないか。
「文化的生活」っていうのも、お祭りに参加するとか、これは「ワニブタカレンダー」の中では増山さんの言葉を借りて、「お祭りや寄り合いに参加する」っていう、子どもたちが大人に混じって、あるいは独自に子ども集団を作っていろんなことをやっていった時代があったんですよね。
その中で、子どもたちは文化っていうものを獲得していきました。演劇、芸能ももちろんその中で使われたし、そういうものを一緒にやっていきながら子どもたちは社会に参加していく。
それは自分たちの存在というか、自分たちは人間としてどういう生き物なのかっていうことをそこで実感していくっていうために文化的生活、芸術への参加っていうのはあるよねっていう。子どもたちの主体性っていうのを生み出していくものとして僕らは芸術文化を捉えたいっていうことです。
そういう意味で31条全体が、子どもたちが主体的に、権利の主体として生きていくための喜びを感じる場であり、かつ未来に向かってその主体として生きる力を育んでいく場、育んでいく権利だということを、僕らは考えてきました。
それをどう具体的に表現していくかということを考えました。やっぱり、僕らは舞台を作るっていう得意技を持っているわけで、芸能関係、芸術・アートアーティストの皆さん。そこを、本当に子どもたちが、その一番大事な部分で、子どもたちの主体性、創造力をどう保障するのか、引き出していくのか、ここをちゃんと握った舞台づくりをしたいねというのが、今「31条のひろば」から生み出された作品づくりになっています。
なので、とても俳優さんたち苦労してます(笑)。なぜかって言うと、子どもたちがどう感じる、どう見える、何を感じるんだろう、何考えるんだろう、どう考えてほしいんだろうみたいなことが、いつもその稽古の中で一つ一つセリフを言うたびに議論になっていくんですね。それを重ねていきながら、ちょっとね、1年半かけて作るぐらいの時間かけないとできないと思ってるので、来年の春ぐらいには皆さんに見ていただけるんじゃないかなとは思ってるんですけども。
それは1つ、やっぱり31条ムーブメントとして、子どもが権利の主体として生きる力をつけていく、子どもたちに、主体として生きることがいかに楽しいのかってことを共有するっていう時間として、そういう作品づくりを今考えているところです。
一応、私の問題提起はこの辺にしておきます。
今日この後の時間は、何かを決めるとか、あるいは、なんか何が正しいかを議論するとかいうことではなくて、いろいろ皆さんが感じること、考えたことか話し合いたいことをそれぞれ出しあって、それを整理して、11月のフォーラムの中でもっと時間を取れますので、みんなで議論をしたい。それから自分たちの今やってる実践の中の悩みとかというものも、そこの中でみんなで出し合って話し合うことによって、経験交流にとどまらず、「こうしたらいいんじゃないか」、「こんなことやってみたらどうだろうか」ってことを、みんなで発見していく時間にしたいなっていうふうに思ってます。
はい、お疲れ様でした。
