2025年10月31日(金)18:00~20:00 オンライン
(野井)
こんばんは。よろしくお願いします。実行委員会の打ち合わせということで、フォーラムの役に立つ話題提供できるかっていうのはちょっと心配なんですが、今日はこのようなテーマ(31条から『教育』への提案・提言)をいただきましたので、これまでお話してきたようなことをちょっと違う観点で考えてみました。具体的には、これまでお話ししてきたことを「ポリクライシス」というキーワードでつないでお話してみたいと思います。では、スライドも準備してみたので、共有しながらお話をしていければと思います。
そもそもポリクライシス(polycrisis)っていうのは、「ポリ(poly)」という“多く”のとか、“重合の”とかっていう意味と、「クライシス(crisis)」=“危機”を結合させた造語で、複数の世界的な危機が絡み合って、個々の事象の単純な合算以上の大きな影響を及ぼす状況のことをいいます。この言葉を耳にした時に、私たちの子どものからだと心の領域の状況も同じだなって思いました。「学力偏重」「貧困・格差」「虐待」「政治的混迷」等々、いくつかの危機が日本の子どもたちの周りにはあって、これらは個々の合算以上の競争を生んじゃってるし、自己責任という状況を生んじゃってるし、先行き不透明という状況を生んじゃっている。考えてみれば、まさしくポリクライシスだよなと思います。
これらが子どもたちのからだと心の状況に及ぼす影響という点では、子どもの権利条約市民NGOの会では、従来より4つのインジケーターを大事にしてきました。
1つは、プレッシャーを他者に“転嫁”して起こる問題としての「いじめ」。
1つは、プレッシャーからの“忌避”として起こる問題事象としての「不登校」。
そして1つは、プレッシャーに“対抗”して起こる問題として見えてくる「暴力」。
そして4つ目が、プレッシャーを感じる自己をなくそう、“透明”にしよう、として起こる問題としての「自殺」。
さらに、われわれ健康の分野では新たな問題として、エナジードリンクを含む「オーバードーズ」の問題も無視できないぐらい大きな問題になっていますが、これはプレッシャーからの一時的な“逃避”として起こる問題事象だろうと話していますし、子どもの権利条約市民NGOの会の次の統一報告書ではこのことは触れなきゃいけないと思っているところです。
ただ、子どものからだに現れている異変はこれだけではなくて、これも同じく従来から指摘してきた問題ですけれども、病気や障害とは言えないけれども健康とも言えない「からだのおかしさ」の問題というのはこの間ずっと深刻化の一途を辿っていますし、多様化の一途を辿っています。
なかでも私たちが心配だと指摘してきた1つが前頭葉機能に関する問題です。この間の調査結果では、幼稚で落ち着かない“不活発型”の子どもたちが、特に男の子で増加している様子が確認されています。また、同じ前頭葉機能の調査では、かつては一人も観察されなかった、良い子と見られがちな“抑制型”の子どもたちが、どの調査でも一定数ずつ存在する様子も確認され続けています。
かたや自律神経の調査では、中国・昆明の子どもに比べて日本の子どもたちの方が、交感神経が優位な様子、言い方を変えると“過緊張状態”“過覚醒状態”“臨戦態性状態”と言える状況にある様子も確認されていますし、これら前頭葉や自律神経の調査結果の背景には当然睡眠の問題があるだろうと推測できますが、世界で1番睡眠時間が短く、睡眠問題を抱え、睡眠・覚醒リズムが乱れている様子も確認されているわけです。まさしく“危機”です。
こういった中、ある時、大学院生さんと一緒に授業の中で、『TRAUMA and RECOVERY(心的外傷と回復)』、この本を読んでいました。この第5章は児童虐待の章になるんですが、そこにはこんな下りがありました。被非虐待児、つまり虐待を受けている子どもに特徴的な身体症状として、睡眠問題を抱え、交感神経が過緊張状態で落ち着かず、あるいはいわゆる「よい子」を演じ、排便習慣が乱れているというものです。
一方で、1枚前のスライドでご覧いただいた調査結果は、いずれも園や学校から依頼されて行っている測定の結果です。園や学校に来ている子どもたちですから、いわゆる「普通」、いわゆる「健康」と思われてる子どもたちです。そういった子どもたちを対象に行ってきた調査の結果として導いてきた結論と、この虐待を受けている子どもたちに特徴的な身体症状として描かれているものが極めて酷似しています。そうなると、日本の子どもの多くは被虐待児なのか、そういうことになってしまうわけです。
そういったこともあってか、コロナ禍前の2019年3月には国連子どもの権利委員会から「社会の競争的な性格により子ども時代と発達が害されることなく、子どもがその子ども時代に享受することを確保するための措置をとること」という勧告を受けるに至っています。このような勧告は、過去3回の競争的な教育制度という表現から社会全体の問題に拡大していること、過去3回の最終所見でも発達の歪みの問題は指摘され続けてきましたが、今回はその原因として“子ども時代の剥奪”にまで踏み込んでいることから、これまで以上に深刻な懸念と勧告であると私たちは理解しています。
ただ、このような勧告を見るにつけ、ちょっとだけ頭に引っかかっていたことがあります。それは、こういった勧告、同じような勧告は多くの締約国、中でも先進国では同じように指摘されている可能性もあるということです。
そこでこの間こんなことやってみました。未だ子どもの権利条約を批准していないアメリカを除くOECD加盟国に加えて、OECDではないものの文化が似てるということで中国の勧告も読んで、それらを見比べてみました。
その結果わかったことです。教育制度、さらには社会の子どもに対する圧力とそれによる健康被害が指摘されている国というのは、世界広しといえども、日本と韓国と中国の一部の地域だけだったのです。それどころか、発達への問題と子ども時代の剥奪の問題が紐づけて指摘されている国は、世界広しといえども日本だけでした。
もちろん、中国や韓国の子どもたちも発達の問題との絡みはあると思うんですが、この辺は市民NGOからの統一報告書が効果的にはたらいのではないかとも思っています。いずれにしても日本だけだというのがわかったわけです。
こうやって見てみますと、日本の子どもたちは国際的に見てもかなりの危機=クライシスに見舞われてると言えるわけです。そして、その克服には子ども時代をいかに保障するかが課題というのが国際社会から突きつけられた宿題というのもわかるわけです。
ただ、「子ども時代の保障」と言われても、ある意味抽象的な表現なので、どうやってそれを保障すればいいのか、この辺が1つの考えどころです。
しかも、危機はそれだけではなくて、この5年間ということでも、コロナ禍、異常気象、戦争・紛争です。このうち、コロナ禍という点では、例えば2020年は、東京だけでなく日本中が東京オリンピック・パラリンピック1色になるはずでした。ところが、現実どうだったでしょうか。COVID-19、1色になってしまいました。振り返ってみると何もそんなに昔の話ではなくて、わずか5年前、もう歴史上の出来事みたいに思われている節もありますが、わずか5年前の話です。
この間の子どもたちは臨時休校のような者も経験しました。それを受けて、私たちは「コロナ休校中」と「コロナ休校明け」の子どもの声を聞いてみようということで、質問紙調査を実施しました。
コロナ休校中は、突然の呼びかけだったんですけど、全国31の公立小中学校が反応してくれて、ここにあるように2,423組の子どもと保護者の声を集めることができました。振り返ってみると、いろんな団体が子どもたちのことを心配して、いろんな調査をしてくれていたなと思います。ただ、この2,423組っていう数は見たことないんです。ですから、当時の日本では1番大きな調査だったんではないかと思っています。休校明けも1,341組です。そのほか健康診断のデータも分析してみました。今日はこの中から、子どもたちの困りごとと保護者の心配事の結果をご覧いただきたいと思います。
このスライドには、「休校中」と「休校明け」の子どもの困りごとの訴え率を示しました。例えば、1番上をご覧いただくと、「友だちに会えないこと」と書いてあります。ブルーのラインの横には56.5パーセントと書いてあります。要は、休校中は56.5パーセントの子どもが友達に会えないことに困っていると答えているわけです。それがグリーンのライン、休校明けになると12.2パーセントまで下がってきます。こうやって見てみると、「休校中」と「休校明け」で比較できる12項目すべてで、休校明けに子どもの困りごとの訴え率は減少していました。ですから、ざっくりまとめると、あの突然の臨時休校は、子どもたちのことを大いに困らせていたとまとめることができるわけです。
ちなみに、健康の領域では、その後いろんな論文が出てきていて、臨時休校は感染拡大にほとんど意味がなかったっていうエビデンスもあるわけです。ということは、この間、単に子どもたち困らせただけだったとまとめることもできるわけです。
全く同じ項目で保護者に心配ごとを尋ねてみても同じでした。比較できる12項目すべてで休校明けに訴え率は減少です。ですから、あの突然の臨時休校は保護者のことも大いに心配させていたというわけです。
子どもは困り、保護者も同じように心配してくれていたんだなと思います。ただ、全てが同じということにはならなくて、ランキングみたいなものを見てみると違いが見えてきて面白かったです。例えば、子どもたちの困りごとのランキングの上位5項目をみると、1位は「(思うように)外に出られないこと」、2位は「友だちに会えないこと」、3位は「運動不足になってしまうこと」、4位は「感染症が不安なこと」、5位は「勉強教えてもらえないこと」です。子どもたちのバランス感覚って絶妙じゃないですか。ちゃんと5位ぐらいに勉強みたいなのも入れてくるんです。可愛いなと思いましたね。
実は同じ5項目が保護者の方も上位5項目なんですが、ちょっと順位が入れ替わるんです。1位は「運動不足」になります。じゃあ「外に出られないこと」は何位か言うと、これが3位になります。1位と3位入れ替わるわけです。例えば公園で遊んでいる子どもたちを見ると、大人には運動に見えちゃうのかもしれないです。ただ、子どもにしてみたら、単に外に出かけていっているくらいの感覚なのかなと議論しました。子どもの2位は「友達に会えないこと」でしたが、保護者では5位までランクを下げます。じゃあ2位は何かと言うと「勉強教えてもらえないこと」なんですよね。なるほどなって思いました。
ただ、こうも思いました。朝、玄関あたりで元気に「行ってきます!」という子どもたちに、「行ってらっしゃい!」とお父さん、お母さんが言った後、背中を見ながら、ランドセルを眺めながら心の中で「今日も勉強頑張っておいで」みたいに思うわけですけど、どうですか。子どもにはサラサラそんな気はないのかもしれないです。要は友だちに会いに行っているくらいの感覚なんです。もちろん、この調査はそれを意図してやったわけではないんですけれども、こういった結果は大人の認識とは異なる子どもから見た学校の存在意義も教えてくれたなと思っています。
ひるがえって、日本ではSociety5.0の構想が提唱されています。ご存じのように、人類がこの地球に誕生したときはみんながみんな狩猟社会を築いていたわけです。ただ、この狩猟生活っていうのはどうも落ち着かない。人間は2.0で農耕文化を手に入れて農耕社会を築きました。ただ、人間っていうのは欲深いです。3.0で工業社会を築いて便利な生活を追求し始め、今4.0情報社会ではもっと便利で快適な生活と言うわけです。ただ、これからの社会は違います。5.0超スマート社会を目指していこうという構想です。
同じ内閣府のホームページにはこうした下りもあります。なんと2030年までに1人で10体以上のアバターです。2030年ですから、わずか5年後です。今日僕は朝、午前中、午後と世田谷、横浜、葛飾、そしていまは世田谷と移動をしつつ仕事をしてきたわけですが、5年後はその必要ないわけです。僕のアバターくん1号に「きみは横浜、きみは葛飾、きみは世田谷」、それで済んじゃうというわけです。
こういった社会変革が子どもの学びを変化させるのも想像に難くないなと思います。というのはどうでしょう。5.0を目指そうと思ういまの日本の子どもたちがマンモス捕まえるようなやり投げを真剣に学ぶ必要はないと思うわけです。AI社会が来ると言われるわけですから、GIGAスクール構想、これもわからなくはないというわけです。
ただ、この議論には1つ足りないことがあるなって思っています。それは、当の子どもたちはそういった学びをどれくらい望んでいるのかということです。というのは、先ほどご覧いただいた緊急調査の1番最後のところには自由記述欄も設けてみました。自由記述欄ですから書いても書かなくてもいいわけです。ところが、僕らの調査、とりわけ休校中は子どもたちもいいたいことがいっぱいあったんだと思います。長文で返してきましたね。
例えば5年生の男の子、こう書いてました。「学校があれば楽しく勉強できるのに、1人ではやる気がでない」。何気ない一言ですけれど、学校っていう箱は子どもたちのやる気さえ引き出してくれていたんだよなと改めて思いました。また、6年生の男の子は「1人で勉強したら自分の意見と正解しか分からないから、たとえ会えなくても友だちの意見を聞きたい」です。あの長引く休校生活では、先生たちも焦り始めて、課題を出し始めました。子どもにしてみたら課題を出されちゃったから、家でそれを解くわけです。解いて提出すると正解が来ます。つまり、自分の意見と正解しかわからない。ところが、この子が知りたいのはそういうことでないわけです。「Aちゃん、どういうふうに書いたのかな」「Bくん、どういうふうに考えたのかな」、それを知りたいというわけです。
これらの叫びは、あの教室での学びが“教師-子ども”といった「縦の関係」だけではなかったことを改めて教えてくれていると思いました。当然ですけど、そこには子ども同士の「横の関係」の学びも、時には年上年下の子との「斜めの関係」の学びもあることを改めて教えてくれた感じがします。言い方を変えると、まさしく“education(エデュケーション)”だなとも思いました。
というのは、そもそも“education”の語源はラテン語の“educere(エドゥセア)”にあるということを、僕自身は院生の頃に大田(堯)先生の本を読んで学んだわけです。このエドゥセアの最初の「e」は外へ、「ducere」は引き出す。つまり、エデュケーションというのは、それぞれの子どもたちが持っている能力をどう外に引き出してくるか、これがエデュケーションと教わった記憶があるわけです。そう考えると、どんなに休校で教科書が遅れたからといって、それを教え込むことにはならないと思いました。
ただ、そう思って改めてこの分野の研究を覗いてみると、この分野はこの分野で研究が進んでいて、最近は“educatio(エドゥカシオ)”だったんじゃないかって説もあるそうです。ただ、このエドゥカシオまで来てもそんなに変わりません。この動詞は“educare(エルカーレ)”になります。じゃあエルカーレってどういう意味かっていうと、「育てる」という意味にしかならないんです。ここまで来ても教えないんです。つまり、教え込みがちな「縦の関係」の学びではなくて、「横の関係」や「斜めの関係」の学びにこそ、互いの能力を引き出し合うとか育ち合うっていう、エデュケーションの本質があるなって改めて思うわけです。
その点、教育のワンシーンをイメージしましょうと言われると、室内にきれいに並んだ机と椅子、そこにお行儀よく座っている子どもたちがいて、一方で黒板を背にその子どもたちに話しかける大人がいる、そういうシーンを思い浮かべる方が多いんじゃないかと思うんです。ただ、引き出し合うのがエデュケーション、育ち合うのがエデュケーションですから、むしろ、保育所や幼稚園のような整然としていないと言ったら怒られちゃうかもしれないですけど、カオスの状態ですね。あるいは休み時間の保健室、ソファーで群れている子どもたち、放課後の学童の子どもたち、そういったところにこそ真の学びがあったと言えないかなって思うんです。
ところが、ちょっと前の話になりますが、日本では「学級崩壊」や「小1プロブレム」が問題視される中で幼小連携が叫ばれ始めたこと受けて、2017年の新しい指針では「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」が示されたわけです。「健康な心と体」「自立心」「協同性」等々といった10の姿です。わからなくはないです。ただ、さらにその先を読み進めると、ちょっと首をかしげたくなります。ご覧のように、「健康な心と体」では「自ら健康で安全な生活を作り出すようになる」と書かれています。幼児期の終わりですから、わずか5歳です。「道徳性・規範意識の芽生え」も、「良いことや悪いことがわかり、相手の立場に立って行動するようになる」です。これらを5歳というのはどうかなと。
繰り返しになりますけれど、幼小連携の文脈の中でこういった「10の姿」が出てきたということを考えると、「園の学校化」だなって思いました。「遊びの教育化」だなって思いました。
ただ、今、日本の子どもたちのからだと心が求めているのは逆なのではないでしょうか。「学校の園化」だし、「教育の遊び化」だといえないでしょうか?
というのは、昨今のコロナ禍で改めて教えてもらったことはそれだけでありません。ステイホーム、活動自粛と叫ばれ続けていた時に、そう言われたところで僕らは「動物」です。改めて書いてみると“動く物”です。つまり、基本的には動かなければヒトにも人間にもなれないというわけです。
その点、先ほどSociety5.0ことを話しましたけど、実は人類の歴史の長さを考えると、その99パーセントはSociety1.0と言われてます。残り1パーセントで僕らは農耕を手に入れ、工業を手に入れ、情報社会に至っているだけの話です。わずか1パーセントで遺伝情報までアレンジすることはできません。そのため、ヒトの遺伝情報のほとんどは狩猟採集生活に適したからだのままと言われてます。
確かに、この現代社会で狩猟採集生活を続けている民族がいくらかだけいますが、その1つのハッザ族の研究によると、女性は毎日9㎞、男性は毎日15㎞も歩いています。成人でいうと1歩は大体50㎝ぐらいのものです。とすると、女性は毎日1万8000歩、男性に至っては毎日3万歩を歩いている計算になります。しかも今日だけじゃなくて昨日も一昨日もです。今日お集まりの皆さんの中でそれだけ歩いている人はいますか? なかなかいないですよ。結果、日本人は遺伝情報と生活がミスマッチを起こして生活習慣病です。ところがハッザ族はマッチしているので生活習慣病は極めて稀というのです。
そういう意味では、この5年間、子どもたちであってもステイホーム、活動自粛と言われ続けてきました。その中で、「体力が心配」「骨折が多い」「疲れやすい」「動きぎこちない」というのは、ある意味当たり前だという気がしてしまいます。
また、3密の回避、ソーシャルディスタンス、これも声高に叫ばれました。その時に思ったのは、そう言われても僕らは人間だしなということです。この人間もよくできていて“人の間”と書くわけです。つまり1人で進化してきたんじゃなくて、人の間で進化してきたというわけです。
その点、京都大学の前の総長の山極寿一先生、ご存知のようにゴリラ研究の第一人者です。僕自身、お会いする前から山極先生のファンで、いろんな本を読み漁っていました。その著書『ゴリラからの警告』は、「私はゴリラの国へ留学してきた。いつもそう言っている。まさかと笑う人もいるが、私は本気でそう思ってる」という文章から始まっています。
確かに、山極先生たちの研究手法は人付けなんです。人に慣れさすんです。バカなことするなと思うんですけど、山極先生自身がゴリラの群れに行くわけです。当然追い払われますよね。次の日また行きます。また追い払われます。これを繰り返していると、ゴリラの方が迷い出すんだそうです。「あれ、こいつゴリラなのかもしれない」と思うんだそうです。仲間入れるって言うんです。嘘みたいな本当の話です。そして、ジャングルの中で一緒に過ごすんです。もちろん寝るときはベースキャンプ戻りますけど、次の日またゴリラが起きた頃にその群れに行って、また一緒にジャングルの中で過ごす。まさにゴリラの国に留学しているんです。
いや、面白い先生です。今から3年ぐらい前です。僕らの「子どものからだと心・連絡会議」が主催する全国研究会議にも来てもらってお話をしてもらいました。その中で示してくれた仮説の1つがこれです。
進化の過程でサバンナに飛び出した人類は、ライオンと遭遇して子どもを失う危険に直面することになりました。よく、人類は好奇心旺盛だからサバンナに出かけていったみたいな美談がありますけど、それは嘘なんだそうです。人間って弱い動物じゃないですか。例えば木登りをしたら猿に負けちゃうし、かけっこしたらチーターに負けちゃう。ある時、ジャングルに食べるものなくなってしまい、決死の思いでサバンナに出かけていったというのが本当らしいんです。ただ、そのサバンナはやっぱり無防備。生理的弱者である子どもをいっぱい失いました。子どもを失うということは人類絶滅の危機。人間はそこで遺伝情報を少しアレンジしたんじゃないかって言われています。それが証拠に、同じヒト科のゴリラ、オラウータン、ボロボ、チンパンジーといった霊長類には年子はいないんだそうです。ところが、途中までは同じ進化を遂げてきたはずなのに人間だけは年子がいます。どうしてこんなに出産間隔が短いのか。要はたくさん産んで多少殺されちゃってもしょうがない。とにかく人類を繋いでいこうという戦略をとったんじゃないかと言われているそうです。
おまけに人間は大きな脳も獲得しました。この大事な脳がいつまでたっても育たないのもリスキーです。そのため、生まれてすぐは急速な脳の成長のために選択的に脳にエネルギーを分配します。だから、乳児や幼児は相対的に頭が大きいわけです。頭が育った上でやれ今度はからだだというわけですから、人間は育つのに時間がかかるとか、未熟な中で生まれてくると言われるのはそのためです。
いずれにしても、頭でっかちで手がかかる子どもをたくさん抱えることになっちゃいました。そうなると、お母さん1人じゃ育てにくい。結果、家族が必要になったし、共同体が必要になったという仮設です。要は、子育てのために社会が生まれた。子育てのために群れるような仕組みができたっていう仮説だなって思いました。
その点、この5年間のコロナ禍は、子どもたちであっても群れることを極端に制限され続けてきました。その中で、コミュニケーション能力の低下、人間関係のトラブル、これも当然だよなという気がするわけです。
このように考えると、私たち人類は生きるために動いて、子育てのために協力しながら進化してきたと言えないでしょうか。もっと言うと、僕ら人類は動いて初めて人になるし、群れて初めて人間になる。そのことは今声高に叫ばれているSociety5.0時代が来ても同じだなと思うんです。というのは、残念ながら僕らはホモサピエンスをやめることもできないわけです。その選択肢はないわけです。この遺伝情報を持ち続けるしかない。もっと言うと、そういう社会になればなるほど、動くこととか群れることって制限されちゃうことは、今日もそうですけど、こういったオンラインの生活の中で嫌というほど感じてきたわけです。だとすれば、これまで以上に動くこと、群れることって大事だということを強く強く自覚しておく必要があるだろうと思うに至りました。
だとすると、動くこと、群れることの自粛が要請されたコロナ禍の生活っていうのは、子どもたちに課せられた想像できないほどの試練だったし、間違いなく新たな危機だった、クライシスだったと言えるわけです。
同時に、先ほどご覧いただいた休校中調査において、子どもたちは困りごとの第1位に「外に出られないこと」を挙げていました。動くことに関わっていないですか。2位は「友達に会えないこと」でした。群れることに関わっていないですか。これらに困っていたというあの声は、僕ら人類がヒトという動物であること、人間であることを本能的に感じて教えてくれているようにさえ思えたのです。
先ほどお話ししたように、日本は国連子どもの権利委員会から「子ども時代の確実な保障」が勧告されています。その点どうでしょう。子どもの子どもによる子どものための文化である「遊び」は子ども時代の象徴という気もします。それどころか、動くこと、群れることが必然的に内包されてもいます。こう考えると、「子ども時代の保障」っていう言い方はあまりに抽象的ですが、子どもたちの遊びを確実に保障することが私たちの句の課題だっていうふうに見えてくると思うんです。
ただ、今日は31条の会だから受け入れてもらえると思うんですけど、こういう話をあちこちでしていると、「遊びが大事なのはわかるけど、学びも大事だし」みたいな声がやっぱりこう聞こえてくるわけです。ただ、これについてもこう思います。
そもそも「遊びは学び」です。このことは小学校に入学したての子どもたちもそれを教えてくれていると思うんです。例えば、この時期の子どもでも、先生が教室で「立ちましょう!」言うと、「は~い!」かなんか言って立つわけです。「座りましょう!」って言ったら、「は~い!」かなんか言って座ります。どうでしょう。この事実は入学したての子どもたちでも日本語を理解していることを分かりやすく教えてくれていると思いますか? じゃあ、そこにいる子どもたちはそれまでの人生のどこでそれを教わったのでしょうか? チョークと黒板、教科書とノートで教わった子はいないと思うわけです。みんな毎日の生活や遊びの中でそれを学んできたわけです。だから「遊びは学び」と言うわけです。
一方で、この時期の子どもたちに遊びが嫌いな子はいません。ということは、学びが嫌いな子もいないということです。それが証拠に、例えば、来年から小学校に入学する子に、「小学校行ったら何してみたい?」なんて尋ねてみると、多くの子どもたちが「お勉強」って言うんです。「国語」って言ったりする子もいます。あれだけの子どもたちが言うんだからほんとなんだよなって思います。でも考えてみれば、これも確かにで、知らなかったことを知ったり、できなかったことができるようになったりというのは大人でも嬉しいし、楽しいことです。この時期の子どもたちは、新しく知ること、新しくできるようになることの連続ですから毎日が楽しくてたまらないんだと思います。そのうえ、小学校に行ったらいろいろなことを教えてくれて、いろいろなことを知ったり、できるようになったりするんだよなと思っているということなんだと思います。
ところが、いざ小学校に入学して、チョークと黒板を前に、自分用の机と椅子が準備されると、なぜか学校から離れていく子がいる。そればかりか、今日お話したような問題に加えて、いじめ、不登校、暴力、自殺という問題さえあるわけです。僕らの社会はこの現実どう考えればいいのでしょうか。
また、そもそも「遊びは学び」と言っているのは子どもではなくて大人たちです。にも関わらず、「遊んでばっかいないの」と怒られている子どもを見かけることはあっても、「学んでばっかいないの」って怒られている子どもは不思議なくらい見たことがありません。分かりやすいダブルスタンダードです。
繰り返しになりますが、子どもたちは決して「チョークと黒板」「教科書とノート」だけで学んでいるわけではありません。もちろんそれらで学んでないとは言っていません。けれども、それだけで学んでいるわけじゃないわけです。僕らはそれらでのみ学んでいると思い込みすぎていないでしょうか。あまりにも偏った学びを要求したすぎちゃっていないでしょうか。もう1度、この原点に立ち止まって考え直すべきだろうとつくづく思います。
これも繰り返しになりますが、今の日本には園の「学校化」、遊びの教育化と言えるような状況さえあります。ただ、子どものからだと心が望んでいるのは逆だなと思うんです(学校の「園化」、教育の「遊び化」)。というのは、今日お集まりの皆さんはよくご存知の話なのかもしれないんですけれども、ホロコースト禍のゲットーでは「ガス室ごっこ」が行われていたというんです。最初に読んだ時には目疑いました。さすがに「ガス室ごっこ」はないだろうって思ったんですが、でもそこにいる子どもたちはその時代、その地域で生きてかなくちゃいけない。周りの大人たちの雰囲気から、いずれ僕らは汽車に乗せられ、終点まで連れてかれるんだよな、そしてガス室に入れられて殺されるんだよな、ってことを周りの雰囲気から察しているのかもしれないと思うのです。そのため、そういうシチュエーションになった時にどういう立ち振る舞いすればいいのか、遊びの中に取り入れて学んでいるだけなのかもしれないなと思っていました。
この予想があながち間違えていないかもしれないと思ったのが、東日本大震災で休園を余儀なくされた保育所や幼稚園で再開後、子どもたちが「津波ごっこ」をしていたという話を聞いた時です。だけど、その子たちだってその時代、その地域で生きていかなくちゃいけない。次に津波が来た時にどういう立ち振る舞いをすればいいのかを遊びの中に取り入れて学んでいるだけなんだよなと思ったわけです。能登半島でも「地震ごっこ」だったし、さすがに今のガザではもう遊ぶ元気さえないかもしれないけど、ちょっと前までは「戦争ごっこ」だったわけです。「ガス室ごっこ」にしても、「津波ごっこ」にしても、「地震ごっこ」にしても、「戦争ごっこ」にしても大人たちが今この遊びをやっておきなさいって言って子どもたちが遊んでいるわけではなくて、子どもたちが自らそれを作り出している。それくらい子どもたちってたくましいなって思います。けなげだなって思います。強いなって思います。僕らは子どもたちをもっと信じて待つことに徹してみてもいいように思うのです。
このように考えても、やはり遊びは学びだなと思いますし、それどころか子どもは遊びでできているとさえ思うのです。
子どもを取り巻くポリクライシスがあるのは事実です。でも、ポリクライシスがあるんだったら、ポリソリューションっていうのがあってもいいのかなと思います。そして、その可能性を秘めているのが「遊び」なんじゃないかと思うんです。「遊び」を取り入れることによって、いろいろなものが多面的に解決されていく可能性もあると思うのです。
最後の最後に自己紹介みたいになってしまいますが、僕自身は子どもの権利条約で言うと、決して31条から始まったわけではなくて、6条の生存や発達の権利、あるいは24条の健康の権利から始まりました。ただ、その研究を進めれば進めるほど、みんなで議論すればするほど、だんだんだんだん31条の遊びとか休息になっていったのは、このポリソリューションの可能性が「遊び」にはあるからなんだよなということを、今日の機会をいただいて頭の中を整理してみて思いました。ということで、お約束の時間を5分も延びてしまいましたが、私の話題提供は一旦ここまでにしたいと思います。
どうもご清聴ありがとうございました。
