休息・余暇(石濱、増山)

石濱加奈子

6回子どもの権利条約31条のひろば2025

2025331日(月)18:00~20:00 オンライン

 「子どもの余暇を『くまのプーさん』という児童文学から考えてみよう!」

(石濱)

よろしくお願いいたします。

「子どもの余暇を『くまのプーさん』という児童文学から考えてみよう!」ということで、今回お話しさせていただきます。スライドでは、いろいろな場面を取り上げおり、最後も取り留めのない話になってしまうと思うのですが、くまのプーさんのお話の中から、余暇がどういうふうに捉えられているか、それを今の日本の子どもたちの問題点にどう繋がっていくかということをお話できればと思います。

元々くまのプーさんに注目をしたきっかけというのは、『プーと大人になった僕』という映画からでした。この映画は、プーと一緒に過ごすクリストファー・ロビンという男の子が大人になった時の映画です。

クリストファー・ロビンが大人になった時、カバンのセールスマンになるのですが、家庭を顧みず、自分がゆっくり過ごすとか、家族と過ごすことが全くできず仕事に明け暮れる日々を送っている時に、たまたまプーさんにまた出会うというところからスタートします。

その中でプーさんは、もちろん変わらずに森の中で、生活をしています。変わってないので、クリストファー・ロビンが忙しくしていることに対して、納得できないというか、それを理解できないのです。そこで、「僕はいつでも何もしないをしているよ」ということをクリストファー・ロビンに伝えると、クリストファー・ロビンは「そんなことをしてる場合じゃないんだ、僕は」と応答するといったやり取りがあるのですが、その中にすごく有名になった、「何もしないをすることは最高の何かに繋がるんだよ」という言葉がでてきます。

「何もしないをする」という日本語訳は、“Doing Nothing”というのが元の英語なので、確かに「何もしないをする」という訳なわけです。そこで、「何もしないをする」とはどういうことだろう、と気になり、そこから、もう1回、『くまのプーさん』を読み直してみようと思ったことがきっかけで、「何もしないをする」を考えてみようと思いました。

そして、『くまのプーさん』と『プー横丁にたった家』という2冊を対象として、検討しています。それぞれの場面を取り上げ、プーさんたちは、こういうふうに過ごして、こう考えているのかなということを考えていきたいと思います。

第2章では「プーがお客にいって、動きのとれなくなるお話」というのがあります。これは、プーさんがディズニーだとラビットと言われているウサギの家に遊びに行きます。そこで、ちょうどプーさんにとってはおやつの時間になったので、ウサギの家にあったパンにコンデンスミルクやはちみつをつけて、たらふく食べてしまうんです。そうすると、プーさんのお腹が大きくなって、入ってきたウサギの家の出入り口にはまって出られなくなってしまいます。はまってしまったところで、普通ならばこの穴を大きくして出そうというふうに考えるところ、「1週間もこのままじっとしていれば痩せて出られるだろう」とみんなで考えて、そして1週間、ここではまったまま待つことになります。

その間、家の中ではウサギがそのまま生活をしているので、洗濯をして、プーさんの足がちょうどそこに出ているので、「ちょうど良かった。ここにタオルをかけさせてもらうね」と言って洗濯したものを足にかけて干したり、そして、外では顔が出ているので、クリストファー・ロビンがそこに来て、お話をしたり、絵本を読んだり、ということが繰り広げられます。

プーさんは最初少々焦ることは焦るのですが、その後は全く焦ることなく、クリストファー・ロビンも、もちろん周りの仲間たちも焦ることなく、ゆっくりその1週間を待つのです。そして、1週間経って、そろそろ痩せたから抜け出せるだろうというところで、みんなに引っ張ってもらって抜け出すことができました。その時の記述として、「嬉しそうにお礼を言うと、鼻歌を歌いながら散歩に出かけました」と書かれています。なんでしょうか。窮地に陥って1週間ここにいたとしても、嬉しそうにお礼を言って、そして鼻歌を歌えて、お散歩に出かける。家に帰ろうとか、ゆっくりしようとか、そういうことではなく、散歩に出かけるというそんな余裕があるんだな、と感じます。その1週間窮地にあっても、みんなで一緒に過ごしたり、遊んだり、それがゆっくりするような時間になることで、そこに心の余裕ができることを示したかったのかもしれないと思います。そして人を信頼するからこそ、焦らず怖がらずいられるという気持ちもあるのだろうとも思います。

次に、第6章です。ここでは「プー棒投げ」という比較的有名な遊びがでてきます。この棒投げというのは、橋の片側からみんなで一斉に木の枝、棒を落とします。落とすと橋の反対側に行って、誰の棒が早く出てくるかということを競う、そんな遊びです。それがこの仲間たちの中で流行る時があります。ある日、棒を投げて反対側を見ていたら、イーヨーが川に浮かんで流れてきます。そのため、なぜイーヨーが流れてくるのだろうと不思議になりながらも、いろいろな遊びの中でイーヨーを助け出すのです。そして助け出されたイーヨーが、「なぜ私が川に流れてきたかというと、トラーにぶつかられて落ちてしまったんだ」と、言うのです。しかし、トラー、ディズニーでいうティガーですね。トラーが「私は単に咳をしただけだよ、咳をしたのにびっくりしてイーヨーが勝手に落ちたんだ」というもので、ちょっといざこざになります。

そして、「そんなのは誰がそこにいたわけでもないから、もうわからないから、じゃあ棒投げで解決しようよ」ということになり、結果、やはり棒投げをして解決をしていくのです。このようなコミュニケーションがあることとか、それから遊びの中で起きるいざこざを、またさらに遊びで解決するのが、子どもの遊びの特徴といえます。時間があって、余裕があって、誰の介入もない。それを、外から見る人、つまりは大人のような人からの介入がないからこそ、遊びで解決していくのではないかなと思います。そんな時間と遊びがコミュニケーションを生みだすからこそ、解決ができたのだなというふうに感じた、そんな章でもあります。

そして第8章では、コブタとプーが出会う場面についてです。プーの目的はコブタに出会うこと、コブタの目的はプーに出会うこと、とそれぞれ目的をもって、お互いの家を出ていきます。プーの家とコブタ、ピグレットの家を出ると、本の地図の中ではちょうど真ん中あたりで、プーとコブタが出くわすところがあり、そこを「思案のしどころ」というふうに呼びます。

なぜ「思案のしどころ」と言うかというと、お互いの目的がもうそこで達成される。つまり、プーはコブタに出会ってしまって、コブタはプーに出会ってしまって、かれらの目的がもう達成してしまったので、じゃあこの後何をしようかという、その「思案のしどころ」と名付けた訳です。この「思案のしどころ」は子どもたちに置き換えてもよくあることで、「さあ、じゃあ今日遊ぼう」って言って、集合しました。「じゃあ何する」って、それがこの「思案のしどころ」なんだろうなと思います。この「思案のしどころ」で、「ある日、2人は何もしないことに決めました」と書かれている場面があります。「何もしない」といっても、例えば、風を感じるだとか、何かに座って、何かを見てみるだとか、時には、みんなが集まってきて、というような、そんなことも書かれていて、「何もしない」と書いてありますが、実際には、何もしないわけではないというのもわかります。

子どもたちも同じで、「今日、何したの」と聞いた時に、「何もしてないよ」っていうような答えはよくあります。これが、同じなのかなと思いました。このような「何もしないをする」場面が出てくるのは、ここで最後になります。だんだんお話が進むにしたがって、クリストファー・ロビンが成長し、この後、寄宿制の学校に行くということが決まっています。

そうすると、「自分は森に遊びに来ることがなかなかできなくなっちゃうんだ」ということを、クリストファー・ロビンが理解していて、それをなんとなく伝えるのです。そのような時、プーさんに、「一番好きな時間はどんな時?」と聞きます。それに対してプーさんが答え、その後、「君はどんな時が好きなの」っていうことをクリストファー・ロビンに尋ねます。そうすると、クリストファー・ロビンが「僕が一番していたいのは、何もしないでいることさ」と答えます。「『何もしないでいる』っていうことは、僕が出かけようと思ってると、『クリストファー・ロビン、何しに行くの?』って聞くだろ。そうすると、そうしたら『別に何も」』って言って、そして1人で行ってするだろ。ただぶらぶら歩きながらね。聞こえないことを聞いたり、何も気にかけないでいることさ。僕たちが今やっていることが、何もしないことさ」と答えるのですね。つまり、何もしていないというのは、何もしていないわけではなく、自分たちが思うがままに好きな時間を過ごすことを指しているのだと思います。

それが少しずつ崩れていくのが、寄宿制の学校に行くということです。寄宿制の学校に行くことを伝える時、「僕、もう何もしないでなんかいられなくなっちゃったんだ。少しはできるけども、そんなことしてちゃいけないんだって」と答えるのです。これを読んだ時に、学校というのはそもそもすごく楽しい場所であるはずなのですが、「しなければいけないことが増える」ということから考えると、何もしないでいる時間、つまり余暇といわれる時間が、何かをしなければいけない時間によって少なくなってしまうことに対して、クリストファー・ロビンがすごく残念がっているように伝えているのです。なので、子どもたちは「何もしないをしたい」のだけど、そうではなくなることに順応しようとしながら、でも、すごく残念なことなのだと伝えたい作者の意図がよくわかりました。

ここから、日本の子どもたちの余暇をどう考えていくかということになりますが、やはり学校のあり方というのは、子どもたちの余暇にかなり大きく影響しているのだということがわかります。それから、学校だけではなくて、「しなければいけないこと」の多さというのは、余暇に大きく響いているのだと思いました。そう考えて、今の「こども基本法」や「こども大綱」を見ていくと、「こども基本法」には、遊びに関する具体的な記載ってないのですが、こども大綱「はじめの100か月育ちビジョン」には、「遊び」とか「学びの体験を通じて」などを通じて、「遊びの大切さ」というのが取り上げられてきています。ですので、「遊び」は、わりと今、日本としても、多分世界的にも追い風なのかなと思うのですけど、余暇の記載というのは、全く確認できないと思いました。

少しだけですが、県の条例や市区町村の条例を見た時、「こども基本条例」には、「時間」の記載、「余暇」の記載というのは、すくないですね。東京都千代田区で、ようやく「時間」の記載を見つけることができました。そこを見ると、「小学生以下の児童及び幼児の保護者が、子どもが外遊びをするよう促すとともに、そのための時間が持てるよう配慮するものとする」という一文だけでした。で、これは保護者の配慮事項になっています。保護者がいくら配慮したところで、何かをしなければいけないという社会状況にあったり、学校の在校時間が長かったり、また、学校に関わる、やらなければいけないことが多ければ、こういう時間を確保することも非常に難しい。保護者ができるようなことではないのではないかなと思います。神奈川県もなかなか見つからず、大和市でも保護者の配慮事項に含まれていて、東京都国立市で、ようやくここに、「真摯に必要な休息を取り、自由に遊び、及び安心して過ごすことのできる時間と場所を持つこと」というのが「権利」として書かれています。このように、自治体など社会として、こういう時間をきちんと確保しようっていうことがなかなかいわれていないというのが、現実だと思います。

「こども基本法」や「こどもまんなか社会」という形で、いろいろなことがクローズアップされて追い風ではあるようですが、時間の確保は難しい現実も見えました。プーさんに出てくる「何もしないをする」というのは、増山先生のおっしゃる「ボーッとする権利」「ブラブラする権利」というものを表す、そういう言葉だと思います。すでに1926年にプーさんの作者は、学校がその権利を奪う可能性のある存在だということを伝えているとも受け取ることができます。また、「何もしないをする」時間があるからこそ「遊び」が生まれ、「子どもたちの心身の成長・発達」があるということを、さらにこういうところからも1回読み取って考えていかなければいけないのではないかと感じました。以上です。

 

 

増山均

6回子どもの権利条約31条のひろば2025

2025331日(月)18:00~20:00 オンライン

 

   子どもの休息・余暇の権利とは何か             増山均

 

●やっと、31条が注目され始めました

大屋さんのところに、今日お話しすることの材料を2つほどお送りしておいたので、そちらの資料を見てください。

*「夏休みの意味を考える―子どもの権利条約の視点から」『クレスコ』2022年7月号

*「『あそび・遊び』は子どもの主食」『クレスコ』2025年5月号(掲載予定原稿)

 

1つは、今日これからお話しすることと関わって書いた論文なんですけれども、全教の『クレスコ』には「余暇のこと」「遊びのこと」を、これまで何回か書いてきました。

今年の5月に出る特集号が、今日の話題の「子どもたちの自由な時間を」という特集タイトルで、サブタイトルは「遊びは子どもの主食だ」というものです。

今回の特集企画書には「日本子どもを守る会の増山均さんが、以下のように述べています」ということで、私がこれまで話してきたことをベースにして『クレスコ』の企画が作られているんですよ。

先ほど石濱さんが指摘されたように、日本ではやっと《遊び》のことが話題になってきたけれど、まだ《余暇》については話題になっていません。

子どもにとって余暇が基本的な権利であることを指摘したのは、たぶん私が最初だと思いますが、1994年の2月に出版された、子ども劇場の「ブックレット№1」の『子ども時代は度と来ない、だから―』でしょう。薄いパンフレットなんですけれども、その中身は前年(1993年末)の講演記録を文字化したものなんです。このブックレットがベースになって、同じ年(1994年)の11月に『ゆとり・楽しみ・アニマシオン』が旬報社から出版されたんです。ちょっと気恥ずかしいんですが、当時の私の顔写真が表紙になっている本です。

この2冊が、余暇の問題を正面から取り上げ、今石濱さんが指摘された「何もしないことをする」というようなことにつながる中身を、日本で最初の問題提起した本だったと思います。それ以後、私は同じことを言い続け、何冊もの本も出してきました。番原理的な本は、『子どもの文化権と文化的参加』(第一書林、1995年8月)です。東大の佐藤一子さんと2人の編集でまとめた本ですけど、これが最初の理論書です。そこに書いたことなども含めて、私は後に単著『余暇、遊び、文化の権利と子どもの自由世界―子どもの権利条約第31条論』を2004年に出版しました。おそらくこの2著が、「余暇・遊び」「子どもの自由時間」「条約31条の意義」に関する原理的な問題を提起した最初の研究書といえるでしょう。

それ以後も様々な形で、その時々の課題と関わらせて、「子どもの余暇・遊び」の権利に関して問題提起をしてきました。今日皆さんにお配りしてある、20207月に、夏休みを前にして、『クレスコ』が出した「夏休みの意味を考える」っていう特集ですね。夏休みはそもそもどういうものなのかということについて書いたものです。これは、「夏休み」ってなってますけれども、「休息・余暇」と言い換えてもいい訳で、「夏休み」は基本的に「休息と余暇の権利を行使する時間なんだ」ということを主張したんです。

夏休みへの心配はいろいろありますよ。確かに夏休みにはいろんな問題、事件が起きている。一番心配なのは、夏休み明けに子どもの自殺が増えるということですね。毎年のことですけれど、子どもの生活が乱れる子どももいる。子どもたちが事故や危険に遭遇するので、親も心配、先生も心配ということで、子どもたちの安全を気遣うあまり、大人が子どもを集めて見守り・指導する時間にしてしまう。いろんなことをやらせる時間になっている。子どもの休息・余暇の時間ではなくなっている。

夏休みが、「何もしないことをする時間」ではなく「何かをする時間」になり、あわよくば夏休みに学習が深められて、成績が上がるとか、体が鍛えられて元気になるとか、夏休みが子どもの心身の発達のための学習と訓練の時間であるかのごとくに位置づけられている。教師が宿題をいっぱい出す。さらに「読書感想文提出」「自由研究」という名の下で、夏休みに多くの課題が課せられ、自由に遊べない時間が増えていく。最近はネット上に自由研究を代行するサービスが出ています。メルカリなどに、AIで作った文章・研究なんかも出品され、自由研究をお手伝いしますというのもあり、夏休みの意味がどんどん横道にそれちゃってます。

夏休みは、本質的に子どもの「休息・余暇の時間」であるにも関わらず、子どもにとってはさらにストレスが溜まるような時間になっている。そこで、夏休みの本来の意義は、子どもの休息と余暇の権利にもとづき自由時間を保障することにある、ということを『クレスコ』の5月号に向けて書いたのです。

 

●子どもの自由時間の過ごし方のいろいろ

自由時間とは一体何かを問いなおすと、「時間」をどのように使うかは、本人に任された時間なのです。他者が、教師や親が、その時間を「こういうふうに使いましょう」「こうしなさい」と決めるのではなくて、子ども自身が自由に使える時間、他者からその意味や価値を問われないこと、外側から「意味づけをされない」ということに重要性があるのです。

自由時間は本人の意思で使うわけだけだから、いろんなパターンが生まれます。

1つには好きな学習や芸術、スポーツをする、2つめには、読書や工作、収集など趣味の時間を過ごす、3つめには、ボランティア活動などに打ち込んで社会や人に役立つことをする、4番めには、娯楽やゲーム、遊びの時間を楽しむ、つめには、のんびりブラブラして息抜きや気晴らしをする、6番めに、先ほど石濱さんが話していた、ただなんとなくボーッと時間を過ごして暇つぶしをするというように、いろんな形があるんです。

ですから、あまり一般的には「余暇」って言葉を使いませんが、余暇ということばを使う場合には、①好きな学習や芸術、スポーツをすることとか、②読書や工作、収集などの趣味の時間を過ごすとか、あるいは、③ボランティア活動などに打ち込み、社会や人に役立つことをすることなど、プラスの価値と思える時間を過ごすことが、余暇の意味であるというふうに捉えられてるんじゃないでしょうか。

それに対して、⑤とか⑥とかね、こういう無駄に見えることは余暇の概念の中に入ってないと思われます。しかし、それらマイナスに見える時間の使い方は、出来る限りなくした方がいい、やめさせたいという捉え方がされているんじゃないですか。

とりわけ教師も親も毎日忙しいですからね。そういう忙しい生活をしている大人から見ると、目の前で子どもが、何も生み出さないような、無駄と思える時間を消耗していることは許せないわけですよ。ですから、きちんとして働いてる大人であればあるほど、目の前で子どもがブラブラ、ダラダラして「何もしないことをする時間」を過ごしてることは絶対に認められないわけですね。

そういう状況が日本では家庭でも学校でも毎日起こってるんではないか。したがって、子どもの余暇・自由時間を捉えられない、認められないのは、実は大人の側の、あるいは社会の側の本質的な弱点・欠点です。日本社会には、いまだに余暇の概念が成立していない。大人の中で余暇の権利が保障されていないし、余暇への理解がないので、《子どもの権利としての余暇》などということが話題にされるはずがない。

日本国内のいくつかの自治体で「子どもの権利条例」ができていますが、その中に「余暇の権利」の視点が、すっかり抜けちゃっているという実態は、日本社会そのものの本質的な弱点なのではないでしょうか。

 

●「何もしないことをする」ということはどういうことか

ところで、「何もしないことをする」ということはどういうことか。2013年にできた国連子どもの権利委員会のジェネラルコメント17号に注目することが重要です。31条の会でも何度も話題にしてきたジェネのコメントの17号は、子どもにとっての休息・余暇の権利を取り上げたものです。

子どもの権利条約の31条の日本語訳では、休息・余暇、遊び・レクリエーション、文化的な生活・芸術への参加の権利と訳されてきたんだけれども、余暇概念について、日本社会ではよく理解できていないのです。大人の余暇の権利が保障されていないので、子どもの余暇へのイメージが持てていないのです。したがって、余暇という言葉で訳しても全くその内容がイメージできない。

権利条約には6カ国語の正文があって、それを、ゼミの学生と全部集めて調べて見てみたことがあります。それは31条だけじゃなくて、他の条文についても言えるんですが、条約の日本語訳は主に英文やフランス語正文を訳しているんですけれども、アラビア語とかロシア語はあまり検討されていない。特にアラビア語なんかはなじみがない。そこで私は、自分でわかる範囲の言語についての条約の正文を見てみたんですね、スペイン語は少し勉強したことがあるので、スペイン語の正文を見ていたら、面白いこと発見したんですよ。

それは1994年の子ども劇場の講演記録にも出てきますが、スペイン語の余暇は「ocio」って言葉があるんですけど、条約ではそれを使わずに、「esparcimiento」って言葉を使っているのです。元はEsparcirって動詞で、「散らかす」「楽しませる」って意味なんですがエスパルシミエントっていう名詞になると、「気晴らし」っていうことなんですよね。スペイン語の正文の場合は、余暇って言葉を使わずに、「気晴らし」という単語を使っている。すなわち子どもには「気晴らしの権利」があると書いてあるのを見て、日本語としてもそちらを使った方がわかりやすいなと思い、それ以後私は一貫して、31条の「余暇」のところを「気晴らし」と訳した方がいいのではないかと言ってきました。「気晴らし」の中にはボーッとする時間もあるし、のんびり・ぶらぶらすることもできるし、「何もしないこと」が認められるってことでもある。条約を批准してすぐから、31条の理解に関してそういうことをずっと言い続けてきたわけなんですが、最近になって、やっと注目する人が出始めてきところです。

これまで、「気晴らしの権利」、さらには「のんびり・ごろごろする権利」「ぶらぶら・だらだらする権利」を主張して来たんですが、子どもにそんなだらしない気晴らしをさせておいていいのか、ぶらぶら・のんびりさせておいていいのか、という批判を受け、子どもが何もしないで良く育つのか、子どもをダメにしてしまうのではないかという質問が出てくるわけですよね。。

そこで説明としては「何もしない」のではなく、「『何もしない』ことをしている」のだ=Doing Nothingと言ってきたんだけども、次に出てくる質問は、もしそうだとしても、それにどういう意味があるのかということなんです。

私は、そもそも「何もしないこと」の意義や価値を問う必要はないと思っているんですが、しつこく答えを求める人がいるので、いくつかの具体例を紹介した方がいいと思って、次のようなことを紹介して来ました。

1つは、『ゆとり・楽しみ・アニマシン』の中にも紹介したんですけれども、埼玉大学に勤めていた暉峻淑子さんの『豊かさとは何か』(岩波新書、1989年9月)の中にある事例です。

暉峻さんの『豊かさとは何か』を読んでいて、なるほどと思ったんですけど、この余暇に関わることについて、暉峻さんが西ドイツでの留学経験の中で出会ったことを書いています。「豊かさ」を感じたということの例として書かれていたところに、こんなふうに書いてるんですよ。

「私は、西ドイツに滞在中、それまで思ってもみなかった豊かさを教えられてハッとしたことがある。」と書き出し、その後にですね、「ある朝、森を通って仕事に出かけた時、休暇を取った中年の男性が森の中の籐椅子に寝転んでただじっとしているのに出会った。夕方、帰りにその森を通ってみると、同じ人が同じようにそこにじっとしている。なんとなくおかしくなって、私は声をかけてみた。あなたは日中そこで何をしているんですか。」

その答えは次の通りだったと。ドイツ人のその答えですね。その言葉に「何もしないことをする」ことの価値が的確に表現されています。それあは「余暇文化」が成立していない日本ではなかなか気づけないことなんですね。

「人間は能動的に何かに働きかけ、仕事をしている時も得るものがある。しかし、目的に向かって一生懸命何かをしているときは、周りにあるものは目に入らない。こうして何もしていないと、小鳥の声、風のそよぎ、落ち葉の音、日の光、そういうものが黙っていても聞こえ、見えてくる。受け身で自分を空にして受け取るということもまた豊かだと。私は、こうして時々自然と対話をし、交流をして、イメージをいっぱいにして都市に戻る。自然と共に生きること、支え合い与え合うこと、平和のこと、子孫に残す社会のことなどを体で感じ、自分のものにするのです」と答えたということが書いてあるんですよ。ここが私は非常に重要なポイントだと思うんですね。

先ほど石濱さんの報告の中でも、クリストファー・ロビンと熊のプーさんが、「何もしないことをする」の中で、風の音を感じるということに触れてましたけど、全くその通りで、何もしないことの中で初めて「感じること、見えてくること」があるんです。

 

●《想像力》を育てる2つの道筋について

私はこの「感じること、見えてくる」ことを《想像力》という概念で捉え直そうとしてきたわけなんですよ。「子どもにとって想像力は重要である」ということはどこでも言われてるわけですね。そもそも学校教育は、突き詰めていくと、子どもの想像力を豊かに伸ばしていく場所ですから。

そうすると、「想像力っていうのは一体何なのだ」ということを深めてみなきゃいけないことになるんですね。

今日皆さんの手元にお配りしていた『クレスコ』の5月号に向けて書いた「気晴らしの権利に注目すること」いう文章では、先ほどのスペイン語正文を手がかりにしながら、気晴らし、くつろぎ、のんびりすることであるということに触れて、その後に「想像力と実践力を持った人間に育っていくことが社会を発展させるために必要なこと」であると書きました。学校は、そもそも子どもの想像力を豊かに発展・発達させていく場所なのですが、それは教科書を分厚くして授業時間を増やすことによってだけでできるのでしょうか。

今、日本の教育はタブレットかなんか導入して、コンピュータを使ってデジタル教科書で想像力を豊かにすることやってますけれども、IT機器を使えば子どもの想像力が広がっていくのかどうかということを考えねばなりません。

これは私の仮説で、この『クレスコ』の論文にも書いたし、そのほかにも何度か書いたんですけど、想像力を豊かにするプロセスにはつの道筋があるのではないか、ということです。この私の仮説については、あまり評価も批判もされないので、ちょっと寂しいんですけど。

1つは、学校教育における各教科の系統的な学習を通じて知識や技術を体系的に習得することによって、新たな課題、未知なる課題に対して迫っていくこと。すなわち、論理的思考や推理力を高めていくという想像力です。学校教育においては、そういう形での想像力を豊かにすることを、主に教科の学習などを通じてやってるのではないか。

算数などで、足し算、引き算、掛け算、割り算から始まって、一つ一つの階段を確実に習得していくことによって、プラス・マイナスの世界がわかるだとか、あるいは複素数がわかるようになるとか、目に見えない世界への想像力が広がり、数の概念が豊かになっていくわけですよね。

そういう筋道での想像力の育成も重要だけれども、もう1つ想像力が豊かになる道筋があるのではないか。もう1つとは、生活の中での自由な時間や様々な体験を通して、自然や文化や芸術への興味や関心を高め、生まれ出る「ひらめき」によって、直感的・感性的に未知なる世界に飛躍すること、すなわち、「発想力」や「空想力」を大切にするという想像力への注目です。

つまり、「ひらめく」こと「感じる」ということですよね。森でボーッとしていて何もしないんだけど、風のそよぎを感じたり、鳥のさえずりを聞くことによって、何かがひらめく。そういう想像力も非常に豊かな想像力なのではないか。ノーベル賞の授賞式での受賞者の話を聞くと、重要な研究の基礎は「ひらめき」だったという答えが多いですよ。この「ひらめき」っていうのは非常に重要なことですね。アインシュタインなんかがよく例に出されますけど、学校での成績は悪くて、あまり優秀な生徒ではなかったけど、のちに偉大なる発見をしていくことになるきっかけには「ひらめき」があったということですね。

ところが、学校教育では、前者の推理力や論理的に次を想像する力が評価される一方で、後者のひらめきとその背景にあるのんびりすることやよく遊ぶ中で、子どもが様々に発想を広げていくことの大切さ、発想力や空想力の泉についての評価が弱いんじゃないかと思うのです。

 

●「ひらめき」を生み出す「ぼんやりの時間」を大切にすること

ですから、日本ではこの2つの想像力の育つプロセスのうちの片方が偏って重視されていて、もう1つの余暇・遊び、芸術・文化によって子どもたちが豊かな発想力と空想力を広げるということが軽視されているんじゃないかということを、私はずっと指摘し続けてきたのです。

そんな時に、長く朝日新聞の論説委員をやっていた辰濃和男さんという方が、岩波新書で『ぼんやりの時間』(2010年3月)というタイトルの面白い本を書いているんですよ。この「ぼんやりの時間」というものが、休息・余暇の持つ意味ですね、辰濃さんの指摘は、今日話題にしている「何もしないことをする」ことの意味を考える上で非常に重要な指摘だと思います。

辰濃さんはこんなふうに言っています。何もしないで、のんびりしていると、ぼんやりしていると、心の営みが柔らかくなって空っぽになった時に、その空っぽのところに流れ込むものがある、それがひらめきだ」という言い方をしているんですね。

ですから、空っぽにしないで、いつも頭の中にいろんなものが詰め込まれて、忙しく動き回っていると、ひらめく暇がない。一生懸命いろんなことに打ち込んでいる時には、全く気がつかないことがある。しかし「何もしないことをしている」時に、頭の中にいろんなことを感じたり、ひらめいたりする。そうしたことは非常に大切なことだと思います。「何もしないこと」をしているぼんやりの時間が日本社会の中では軽視されており、そうした時間が、大人にも子どもにも保障されてない。

したがって、「自由時間」という言葉が一番わかりやすいと思うんですけれども、子どもにとっての休息や余暇、自由時間をきちんと位置づけること、それは、子どもの成長・発達及び子どもたちの心と体を健康にしていく上でなくてはならない基本的な権利なのではないか。だから、条約31条は極めて重要な内容を提起している条文なのです。

しかし残念ながら、日本社会そのものは、いまだ休息・余暇をきちんと権利として保障する認識に欠けているし、子どもの身近にいる教師、親自身が休息と余暇の権利を保障されていない。つまり、大人の側の問題が実は大きな問題で、大人の側の問題、社会の側の問題を解決しないと、子どもの権利が保障されるようにはならない。大人の権利保障と子どもの権利保障は深く連動しているのです。

今、学校の教師の長時間労働などで、教師が追い込まれてる、人数も足りないし、いろんなストレスを抱えている教師の労働問題が指摘されてますけれども、子どもの権利条約の31条に関わる問題を、大人の側の問題の見直しへのメッセージとして受け止めて、その意義を深めていかなきゃいけないと思います。

大人が忙しくしているときに子どもとゆったり関わることはできないし、子どもの声や子どもの思いを受け止めることができなくなる、つまり、子どもの意見表明権を保障するってことができないわけですね。

 

●「あそび・遊び」という用語の意味・意義を再確認すること

もう私に与えられた時間がないのでこの辺でやめますけれども、私は、それらのことをわかりやすくするために、平仮名の「あそび」と漢字の「遊び」をセットにして、「あそび・遊び」と表現して来ました。このひらがなの「あそび」は、休息と余暇を表現する言葉です。日本社会には伝統的に平仮名の「あそび」っていう言葉を生活の中で使ってきましたね。例えば「ハンドルにあそびがある」とか、「クラッチにあそびがある」などと。つまり、一見その部分は直接機能しないようなものなんだけれども、それがないと正常にハンドルが機能しないというようなことですよ。別の言葉では「にげ」なんていう言葉も使ってきているんだけど、大工さんなんかよく使いますね、杓子定規に全部詰めちゃうと、きしんだり歪んじゃったりするので「にげ」を作っておかねばならないなどと。そういう、「あそび」とか「逃げ」というようなものがあることが、正常な生活にとって非常に重要なことなのですね。それらが、「ゆとり」っていうことです。

ですから、私は、それらを平仮名の「あそび」というふうに位置づけて、漢字の「遊び」、つまり「遊び」活動の前提に、この「あそび」を保障しておかないと、ゆとりがなくなり「遊ばせ」に陥ることにもなる。漢字の「遊び」、つまり「遊び」活動、「遊び」文化ですね。名前のある様々な遊びは、文化として蓄積されてきたものなので重要なものですが、実は名前のない「あそび」がいっぱいあり、それこそが子どもにとって重要なものなのです。

「遊び活動」の前提にひらがなの「あそび」を据えること。子どもが自分たちで使える自由時間を保障しないで、大人が漢字の「遊び」活動を保障してやろうとしても、それが子どもの遊びになるわけじゃないということですね。「あそび・遊び」と「遊び活動」は、似て非なるものなのです。そのことを間違わないようにしましょうということを、31条の読み取り方、理解の仕方として私はずっと指摘してきたわけですね。

次の7月の実行委員会では、漢字の方の「遊び」と関わった問題提起になると思いますが、その前提に、ひらがなの「あそび」、自由時間をしっかりと据えて、子どもの休息・余暇の権利を保障することを抜きにして、「遊び」から始まると、それは大人が、子どもにとって意味がある遊びをやらせることになっちゃうので、その点を注意しなきゃいけないということを、前もって指摘しておきたいと思います。

31条をどう理解したらいいのかという点をまとめてお話すると、31条は全体としては「子どもの文化権」として把握すべきですが、まず土台としての休息・余暇の権利、すなわちひらがなの「あそび」の権利があり、それをベースにして漢字の遊び・遊び活動と、レクリエーションの権利があり、そして文化的生活・芸術への参加の権利があるというように三層構造になっているのです。その全体を「子どもの文化権」というふうに捉える必要があるんですが、この文化権の視点が日本社会では弱い。とりわけ休息、余暇の権利というもの重要性がほとんど注目されていないし、それだけでなく「ゆとり批判」がずっと続いているように、むしろをなくす方向で進んでいる。そこに日本社会の大きな問題点、病があるのではないでしょうか。さらに今タイパ・コスパが持てはやされる風潮の中で、ますます「のんびり」「ゆったり」が許されない雰囲気になっています。

ですから、教師自身がまずはそのことに気がついて、子どもと接しないとまずい。もちろん社会全体として権利の保障が進むことが必要ですけれども、その実現を待っていることはできないですから、教師や親が、まず意識と視点を変えて、子どもへのまなざしとして、関わり方として、子どもの休息・余暇、のんびりする権利、何もしないことをする権利をきちんと保障するということが重要なのではないでしょうか。

5月に出る『クレスコ』の企画書では、私の巻頭論文のタイトルとして編集部から「遊びは子どもの主食です」というテーマを依頼されましたが、これはこれまで「31条のひろば」で使ってきている言葉です。同じ5月号の中で、野井真吾さんも論文を寄せています。「子どもは遊びで人となり、人間になる」と「ワクワクドキドキ体験が体の発達を促す」。ということで、これまで野井さんが発言されてきたことをベースにして書かれる予定です。この間やっと、学校内外の雑誌の側から、31条に関する注目が進んできています。その流れを、「31のひろば」とともに、もっと強めていかなきゃいけないなというふうに思っている次第です。ちょっと長くなりましたが、以上です。

 

●「子どもの最善の利益」の訳を問い直す

最後の最後にもう一つ、この機会に新しい問題を提起して皆さんのご意見をお聞きしたいと思っていますので、もう少し時間をください。それは「子どもの最善の利益」という日本語訳についてです。「最善の利益」と訳されているBest interesuts は、「子どもの最も関心のあること、興味のあること」というふうに訳すべきではないか、あるいは「最高の楽しさ、面白さ」というふうに訳すことが子どもの最善の利益の中身を明らかにするうえで重要ではないかと思うのですね。最近「最善の利益」とは何かという点について、子どもの声をよく聴いて、大人の側がそれを明らかにして子どもに保障してやることなんだというような捉え方になっているのではないか。こども家庭庁の取り組みなどを見ると、「こども若者★いけんぷらす」と言って、さかんに「子どもの声を聴く」機会を作ることに力を入れていますが、最善の利益の保障、意見表明権の保障の方向が、少しづつずれていっているのではないかと感じるのです。子どもにとっての最善の利益を保障するってことの核心部分は、実は休息や余暇の権利を保障することであり、「あそび・遊び」を保障すること、文化・芸術を大切にするということと真っ直ぐに繋がっていると思うんですね。なぜなら、「あそび・遊び」は子どもにとって「最も関心のあること、興味のあること」であり「最高の楽しさ、面白さ」を保障するものだからです。子どもの「最善の利益」の保障は、子どもの声を聴いてから明らかにするというようなものではなく、子どもの「あそび・遊び」を大切にすること・31条を優先的に保障することで、ダイレクトにストレートに実現されるべきものです。だから、条約3条と31条は不可分一体のものであると理解されるべきです。皆さんも。よろしくご検討ください。

 

 *雑誌『教育』202511月号でも、「子どもの時間」を取り戻すことが特集テーマに掲げられました。

 「子ども期の保障と『子どもの時間』―「あそび・遊び」はすべての育ちの土台」のテーマで論文を書きましたので、ぜひご覧ください。